村の年貢と先納金

891 ~ 895
近世年貢制度の中で、見落とされがちなのが、「先納金」である。これは、年貢を「先納」すること、すなわち年貢の前払いであり、領主の要請にしたがって行われたものである。次の史料は、文政七年(一八二四)付けの、乞田村のものである(資二社経93)。
(前欠)
右者、御収納米・永銭共、当申□□□(虫損)子年迄、五ケ年之内、御下知状我等方江請取、書面之通り、先納金借用申処実正也、依之毎年九月より十月迄ニ、貴殿御差図之方迄積送り可申候、尤永銭之儀者毎年六月・九月両度皆済相成可申候、万一御収納米・永銭共相滞候節者、加印一同相手取、何様ニ茂御懸り可被成候、其節一言之儀申間敷候、為後日、御印証文、依而如件
  文政七申年
         七ケ村
             名主
             組頭
             百姓代
         右三判宛
      嶋屋
       弥右衛門殿
    前書之通相違無之者也
       石毛幸太夫 印
    表書之通相違無之
       渡辺弥次右衛門 印
     豊後役所

 この史料は七か村の年貢を、この先五年間にわたり、返済のために「嶋屋弥右衛門」に納入することを約した文書である。ここで言う「七ケ村」というのは、先の項で取り上げた曽我家が領有する乞田村等多摩郡の五か村と、埼玉郡二か村を合わせたもので、曽我氏支配の村ということである。九月から十月にかけての米納分と、六月・九月の永納分を間違いなく送付すると記されている。
 この文言だけをみると、七か村の農民たちが嶋屋に借金をして、その担保として年貢を差し出しているようにみえるが、年貢を農民が自由に動かすことができるはずがないわけで、領主側からの許可があると考えるのが自然であろう。「石毛幸太夫」と「渡辺弥次右衛門」のそれぞれ後書きと裏書きがそれを証明している。したがって、年貢を領主にではなく嶋屋弥右衛門へ納入することは、明らかに農民の意志ではなく領主の都合だったことは多言を要さない。借金の当事者は、領主だったのである。
 この史料には、さらに「先納金借用之事」そして「下知書之事」と題された文書が続いて記されている。
      先納金借用之事
一、高八百三拾八石 武州多摩郡
              五ケ村
一、米五百弐拾三俵 右同断
     壱升四合壱勺四才
一、五拾三貫六百八拾九文 右同断
     壱分□(虫損)厘五毛
一、高弐百五拾弐石 同州崎玉郡
     三斗七升四合 弐ケ村
一、米弐百七拾壱俵 右同断
一、永三貫八百四拾壱文五分 右同断
  ○七カ村高合
    千九拾壱石壱斗三升三合三勺
     米合七百九拾四俵壱升四合壱勺四才
     永合五拾七貫五百三拾壱文
     此米百四拾三俵三斗三升壱合
 米永合九百三拾七俵三斗壱升五合壱勺四才
 此石三百七拾五石壱斗四升五合壱勺四才
                 但四斗入
 此金三百七拾五両弐朱ト
         永弐拾文壱分四厘

 これによって、この時の先納金の合計額が三七五両余りであることが判明する。さらに、「下知書之事」には、これらの高および金額が記された後に、
右者、嶋屋弥右衛門御勝手向取賄被 仰付候間、収納米永共当申年より来子年迄五ケ年之内、右同人方江□□□□(虫損)可相渡候、依之下知書相渡候、以上
 申八月                  御地頭所
                            渡辺弥次右衛門
                            石毛幸太夫
 御表御印                            村々

という文言が付されている。ここでいう「御勝手向取賄」とは、領主の財務を担当するということであって、いわば領主財政の不足分を補う役務のことである。曽我氏の場合は、嶋屋弥右衛門という商人が、その任に当たっていたことがわかる。