下知書
天野孫左衛門内
寛政十二年庚申年正月 長田利兵衛印
冨沢惣左衛門殿
一、其方儀去未年より御勝手向御賄被仰付、御知行所惣御物成不残御渡被置候、勿論御賄引続相勤候内者村役人共江被仰付年々御物成不残御渡被置候、御勝手向御都合宜相成候様存付候儀者申上、猶又出情(精)可相勤之旨被仰付候、御下知之趣仍而如件
天野孫左衛門内
寛政十二年庚申年正月 長田利兵衛印
冨沢惣左衛門殿
図6-21 御勝手向御賄い下知書
寛政十二年(一八〇〇)の史料であるが、「其方儀去未年より」という文言からすると、富澤家はこの前年から任にあたっていたことがわかる。こうした「御勝手向賄」は、先の曽我氏やこの天野氏に限った特殊なものではなく、広く多摩郡各村々でも行われていた。領主たちは、財政の悪化に伴い、その補填を百姓や商人に依存していたのである。領主たちはしばしばこれを活用しようとした。しかしながら、村側でもそうした動きに従順だったわけではない。落合村の弘化三年(一八四六)六月付けの「歎願書」(資二社経71)をみると、領主の松平氏は遠州への出役のために「御用金」として、落合村に対し一七両一分の負担金を申し渡した。落合村はこれにしたがい、それを納入したのであるが、さらに二〇両余りの金額が課せられてきた。これに対しては、耕地の不作、質地による資金調達が不能であること、などを理由に挙げて、納入免除を訴えている。
多摩市域に残る史料には、こうした「先納金」や「御勝手向賄」に関する文言が散見できる。さらに注目すべきは、これらの現金授受が、利足が賦課される経済的な契約に基づくものだったことである。たとえば、連光寺村の領主天野氏は、享保十五年(一七三〇)に「御用金」を請け取っているのであるが、この「御用金」には毎年二割の利足が課せられており、それを負担しなければならなかった。したがって、これは実質的な債務だったのである(安澤みね「元禄・享保期における一旗本の入用金調達仕法」、関東学院短期大学『短大論叢』十四)。
領主たちは、近世の中期以降村方から「御用金」「御入用金」と呼ばれる必要経費を調達して、生計を成り立たせていたのである。それらにはすべて利足が賦課されており、その利足の支払いのために、よりいっそうの「借入金」を必要とする悪循環に陥っていたといえる。こうした事実から勘案すると、農民に比較して領主たちの方が困窮していたことがわかる。
年貢だけではなく、領主財政にいたる様々な経済的問題にいたるまで、領主と村は相互に交渉しつつ、それに対処していったのであった。