「行政村落」としての面から捉えると、そこからの声は名主をはじめとする、村役人の領主に対する嘆願や訴訟、あるいは要求に代表されると言ってよかろう。しかしながら、そうした行政村落としての声も、結局は、村内における一人ひとりの農民から発せられた、生活を基盤にしたところの主張から形成されていったことに注意する必要がある。
ここでいう「行政村落」と「生活村落」を結びつけているのは、明らかに年貢の存在である。ただし、年貢の収取が領主と農民を常に対立させていたわけではない。むしろつなぎ止める作用を果たしていた側面に、注目すべきである。「先納金」、「御用金」そして「御勝手向賄」といった制度は、村による領主の救済処置でもあったわけで、それは村が自然災害をはじめとする緊急事態に遭遇した際の、領主側の対処に対する反対給付とも考えられるからである。文書の文言の端々からは、そうした領主と村および百姓たちの間の信頼関係が垣間みえてくる。
その象徴的なものとして、明治維新とともに解体した曽我氏の家臣・松田次郎左衛門から、落合村の有山氏へ宛てた書状をあげておきたい(資二社経59)。そこには、次のような一節が記されている。
多摩郡四ケ村御役人中衆よりも退散之節御孫勝次郎様を以夫々御心附御餞別之金子被下候ニ付
すなわち、明治維新によって旧来の関係が解消し、松田次郎左衛門が退職する際に、村の役人たちから「餞別」が贈られているのである。次郎左衛門はこの書状の中で、それまでの友誼に対する感謝を何度となく述べていることからも、双方の対立を読みとることはできない。
年貢システムを中核として、領主と村・百姓、そして商人が、相互に依存し扶助し合いながら生活を営んでいたのが、近世の社会だったのである。