近世後期に作成された連光寺村の村麁(そ)絵図には、同村西の「関戸村境」という表記とは別に、南に「関戸村持添新田」という記載がある(資二社経五七三ページ)。
また、現在の多摩市域の地図を広げてみると、一ノ宮という地名が府中市・日野市の境と、稲城市の境の二か所に見ることができる。また、多摩市域の中には百草や落川という地名があるが、同様の地名は日野市域にもある。多摩市域にある百草や落川という地名は、江戸時代から現在の日野市域にある百草村や落川村の飛地であった。多摩市域にはいくつかの飛地が存在したのである。
それではこうした地続きではなく、離れた場所に同一の地名が見られるといった飛地は、どうしてあるのだろうか。何故、一ノ宮村や関戸村が、村域から離れた場所に自村の持添新田を有したのであろうか。本節では、一ノ宮村の飛地を例として取り上げ、解明してみよう(なお、本節の内容は、安澤秀一『近世村落形成の基礎構造』に依拠するところが大きい)。
持添新田とは、村請によって開発された新田のことで、「一ノ宮村持添新田」という場合は、一ノ宮村が村請によって開発した新田地を指す。つまり、稲城市の境にある一ノ宮は、近世初期から一ノ宮村の持分だったのではなく、近世中後期に持添新田として開発された地域なのである。
この「一ノ宮村持添新田」や「関戸村持添新田」と呼ばれる地域一帯は、近世前期は連光寺野と呼ばれ、数か村が飼肥料を採取する原野であった。この点は第二節において触れているので詳細はそちらを参照されたい。連光寺村は札本村となり連光寺野を管理した。そして、周辺の村々(関戸村・一ノ宮村、また一時期青柳村も含む)が札下村として入会料である野銭を支払い、入会許可証としての野札を受け、連光寺野を利用していたのである。
こうした数か村の入会地であった連光寺野が分割されて一ノ宮村あるいは関戸村などの持添新田となるのは、実は享保改革の新田開発政策に起因する。次に、持添新田が設定される原因となる享保改革の新田開発政策と、連光寺野の関係について述べていくことにしたい。