六代将軍家宣・七代将軍家継が相次いで病死すると、御三家のうち紀州藩主であった徳川吉宗が八代将軍として就任した。吉宗は、政治・経済の多岐に渡って幕政改革に取り組み、多くの政策を推進した。世にいう享保改革である。吉宗は当時から「米公方」と呼ばれていたように、米穀の安定供給に力を注いだ。吉宗の在任中の享保十七年(一七三二)に起こった西国の飢饉は、近世の三大飢饉の一つに数えられる大飢饉で、米価が大暴騰し、多くの餓死者を出している。ところが、この大飢饉の後の享保二十年には豊作となり、米価が大暴落している。この時は、米価の最低価格を定めるような政策をとっている。このように米価が安定しないため、その対策が幕府による重要な政策課題となったのである。こうした米価の安定や財政収入の安定をも目指した年貢増徴政策とも関連して、幕府は新田開発政策に力を注いだのであった。多摩地域でも武蔵野新田など、享保年間を中心に八〇か所余りの新田が開発されている。武蔵国多摩郡においても、この時期多くの場所が新田開発の対象地となったのである。
新田開発の推進者であった勘定奉行神尾春央は、当時勝手掛老中であった松平乗邑のもとで、徹底した年貢増徴政策を推進した。神尾は「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」という言葉を語った人物としても知られている。この神尾春央のもとで、年貢増徴政策を実際に推進したのが勘定組頭堀江荒四郎であったのである。