連光寺野の三か村分割

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堀江荒四郎は、流作場と新田開発場の吟味を目的として、寛保元年(一七四一)六月に手代の野村延蔵を派遣し、連光寺野の見分を行ない新田開発を命じた。連光寺村を始めとして、関戸村・一ノ宮村などの周辺村々が共同で利用していた連光寺野もまた、幕府の新田開発政策の対象地となったのである。
 当初、連光寺野を利用していた、連光寺村を始めとした各村々は、新田開発をせず、秣場のままでいて欲しい旨を願い出ている。新田として開発すると田畑に猪や鹿が多く出没するようになることが理由であった。しかしながら、この訴願は、受け入れられなかった。一定度の秣場を残しつつ、畑として開発できる所は畑開発とし、畑として開発できない所は林畑として開発することになったのである。林畑とは、楢・櫟など雑木を植えて薪炭林を育成した場所のことで、畑として高請けされるが、下々畑よりもさらに低く位付けがなされたのである。
 かくして開発対象地の半分を秣場とし、半分を林畑とした原地新田とすることを願い出た。そして秣野の麁絵図と反別の大積りを提出したのである。その結果、表6―20に示した大積りのように連光寺野が分割されることになった。つまり、連光寺野の内、秣場分として許可された部分を除いた土地全体を二一〇町歩とした場合、九〇町歩を連光寺村分、三四町歩を一ノ宮村分、五〇町歩を関戸村分、そして三六町歩を源左衛門分として、四つに分けることになった(<史>富澤政宏家伝来文書110)。
 こうして連光寺野は、同地に関係していた村々により土地が分割され、村請による新田開発が行われた。そして、同年十月には、おおよその面積を把握するために廻り検地が行なわれたのである。廻り検地の結果を示した表6―20を参照しつつ検討してみよう。
表6―20 連光寺野取立請負開発反別推移
寛保元年6月
大積り
寛保元年10月
廻り検地
寛保3年3月
惣反別 210町歩 131町9反9畝歩 125町1反6畝0歩
秣場 28町4反0畝歩 8町3反0畝0歩
連光寺村新田 90町歩 44町8反9畝歩 44町8反9畝0歩
一ノ宮村新田 34町歩 16町6反0畝歩 23町0反0畝0歩
関戸村新田 86町歩 42町1反0畝歩 48町9反7畝0歩
(注)〈史〉富澤政宏家伝来文書より作成。
関戸村新田分の大積りとしての86町歩は、関戸村分の50町歩と源左衛門分の36町歩を加算したもの。

 表6―20に示したように、連光寺野全体として一三一町九反九畝歩の土地が、連光寺村・関戸村・一ノ宮村の三か村による入会地として認定されている。うち、二八町四反歩の土地は、従来通りの秣場のままとし、残りの一〇〇町歩余りの土地を新田開発対象地としたのである。連光寺村は四四町八反九畝歩、一ノ宮村は一六町六反歩、そして関戸村が四二町一反歩を原地新田として、村請により開発することを決めたのであった。
 この廻り検地の惣反別は、おおよその見積りを算出した大積りの惣反別と比較すると、二一〇町歩から一三二町歩弱へとその面積が縮小している。しかしながら、新田開発の対象地となった面積の割合は、大積りに際して取り決めた各村々の開発面積の比率におおよそ対応している。大積りの際の取り決めが基礎となって、連光寺野に対する各村々への分割が行なわれたのである。
 次に連光寺野のうち、秣場として残された部分についてみてみよう。廻り検地が行なわれた寛保元年(一七四一)十月の段階では、連光寺村の一部を従来通り秣場とすることが決められていた。つまり、秣場二八町歩余りの土地は、原地新田として開発をせず、従来通り田畑の飼肥料採取を目的とした札野入会の場とすることを予定したのである。そして、連光寺村が札元となり、関戸村・一ノ宮村はそれぞれ札下とすることで秣場利用を予定したのであった。

図6―22 秣場一色相極取替証文

 しかしながら、こうして残された二八町歩余りの秣場までも各村々で分割する動きが見られるようになる。つまり、寛保二年二月、新田取立の場所は幕府領となるのに対し、秣場は旗本領となり支配が入組むことから複雑になるとして、秣場も分地し村請による開発を関戸村と一ノ宮村から申し出ている。それに対し、札元である連光寺村は、これまでの札元―札下による入会地利用の由緒を損なうことを理由とし、秣場を分割するのではなく、連光寺村が一手で引き受けたいという趣旨の訴願を提出した。結局、この二つの訴願のうち連光寺村の訴願は受け入れられず、関戸村・一ノ宮村の訴願が受け入れられた。そして、寛保三年三月には、秣場のまま残す予定であったはずの二八町歩の土地を、三か村で分割している。こうして、関戸村と一ノ宮村の両村は村請による開発を行ない、連光寺村の一村分の八町三反歩を秣場として残したのである(資二社経165)。
 表6―20において、寛保三年三月の項では、連光寺村新田に村高の変化がみられないにもかかわらず、一ノ宮村新田・関戸村新田の両新田の村高が若干増加している。それは、当初残すはずであった秣場までも分割されたことによるといえよう。寛保三年三月の項における秣場分八町三反歩は、連光寺村の一村のみの秣場の面積ということになる。連光寺村分が秣場として残す以外は、連光寺野の全てが開発対象地となったのである。鍬下年季が過ぎた後の延享三年(一七四六)三月に神尾若狭守により検地が行なわれ、それぞれの面積と取永が確定された。その結果は表6―21の通りである。こうして連光寺村を始めとした三か村の入会地であった連光寺野は、連光寺村が秣場として残したものを除き、連光寺村・関戸村・一ノ宮村の持添新田として検地の対象地となったのである。その中で連光寺村だけは、連光寺新田として林畑を開発すると共に、草銭を支払うことで六町四反一畝歩の秣場を確保したのであった。
表6―21 延享三年原地検地各村新田面積・石高
面積 石高
連光寺村新田 32町0反2畝27歩 64石0斗5升8合
関戸村新田 31町7反5畝 9歩 63石5斗0升6合
一ノ宮村新田 14町4反6畝27歩 28石9斗3升8合
合計 78町2反5畝 3歩 156石5斗5升6合
(注)〈史〉富澤政宏家伝来文書より作成。