開発地代金と負担

903 ~ 905
新田開発が行なわれる際に、開発を請け負った村は、開発地代金を納め、開発する権利を幕府から買取る必要があった。この開発地代金は、冥加金一反歩当り永五〇文づつを支払うことにしており、鍬下年季の三か年のうちに堀江荒四郎役所へ納めることとしている(<史>富澤政宏家伝来文書41―2)。その割合は、表6―22の通りである。同史料を参照すると、地代金は寛保元年(一七四一)から延享二年(一七四五)の五年にわたり支払われている。その間、関戸村と一ノ宮村における地代金の支払額に変化があるのは、寛保三年に秣場分も村請による開発が行なわれることで、新規に地代金を支払う必要が出てきたことによる。こうして、連光寺村を始めとした三か村は、四一両永一三八文三分を、地代金として支払うことになった。また、関戸村と一ノ宮村の両村は、さらに野銭として、寛保三年以降延享二年までの三年にわたって、一六両三分永一六七文六分七厘を旗本天野氏に対して支払ったのである。
表6―22 開発地代金・野永納額
連光寺村 関戸村 一ノ宮村
反別 44町8反9畝0歩 48町9反7畝0歩 (野高) 23町0反0畝0歩 (野高)
地代金 22両1分永195文   14両1分永191文1分 9両2分永1文 3両1分永 2文2分 7両1分永166文6分
寛保元年 7両1分永231文6分 3両2分永166文7分 永16文7分
寛保2年 7両1分永231文6分 3両2分永169文7分 永16文7分
寛保3年 7両1分永231文6分 4両3分永 62文7分 3両永167文  1両  永83文6分 2両1分永222文2分
延享元年 1両  永146文0分 3両永167文  1両  永67文6分 2両1分永222文2分
延享2年 1両  永146文0分 3両永167文  1両  永67文6分 2両1分永222文2分
(注)〈史〉富澤政宏家伝来文書より作成。

 次に、この開発地代金は、村々の人々がどのような形で負担したのであろうか。寛保元年十一月に作成された、連光寺村の「原地代金割付帳」を素材に明らかにしてみよう。この「原地代金割付帳」は、原地開発に伴う連光寺村内部の個々の家の割当反別と、一反当り五〇文として、反別に応じた原地代金の負担額を示したものである。原地新田開発に伴い、堀江荒四郎役所へ支払うべき連光寺村分の原地代金は、二二両一分永一九五文であった。この負担金は、個々人で三分割し、各家ごとに三か年かけて支払っている。また、同史料によれば、ちょうど一〇〇軒によって分割されている。最初に、忠右衛門をはじめとした六軒が特記され、そのあと九四軒が五兵衛組など貢租負担の組ごとに記載されている。
 「原地代金割付帳」に特記されていた忠右衛門や甚五郎が、それぞれ六町五反余り・六町弱と村内でも広域の原地面積を有する一方で、最小は一反歩と、請け負う面積は村内の人々によってもかなりの差を見ることができる。開発の請地の七割近くが、一反歩から三反歩までであった。八軒の例外を除いて大部分の村民の開発面積は、おおよそ一反歩から三反歩までということになる。これら多くの百姓にとって、林畑を所持することは、本村での本田畑経営を維持していくための肥料の採取か、あるいは薪炭生産に関係することで生計の支えとすることを目的としていた。それに対し、林畑面積を一町歩以上有している階層になると、林畑で生産された薪炭を江戸などに販売することを目的としていたと考えられる。つまり、これらの階層は、本村における本田畑経営と同じように薪炭生産を経営の一つとして考えていた富裕層であった。