原地新田開発の実態

905 ~ 906
こうして、連光寺野を三か村で分割し、関戸村・一ノ宮村そして連光寺村の各村が村請により開発を行なった。この原地新田の開発から検地に至るまで、村内で大きく三つの手続きがあった。
 一つは、先に指摘したような、開発に伴う地代金の支払の割当と個々の請地分のおおよその面積を決めることであった。その時に作成されたのが先に述べた「原地代金割付帳」であった。またその次に、先の地代金の支払と請地分の面積について具体的な場所と面積の割り当てを行なっている。この手続きは、寛保二年(一七四二)に実施されており、「原地小割帳」を作成している。この後に検地が行なわれ、場所・土地の面積・名請人などを確定するのである。そして、延享三年(一七四六)に検地が行なわれ、「原地新田検地帳」が作成されたのである。
 次に、延享三年の原地新田の実態について、「連光寺村原地新田検地帳」を通じて考えてみよう。連光寺村の場合、原地新田は、小字名で述べると舟ケ台西通と狸ケ入の二か所を中心として、他に舟ケ台東通・赤坂・大水上り・天井返り・早道場・諏訪の坂の八か所にわたって存在していた。小字ごとに筆数と開発面積・石高を示したのが表6―23である。原地開発の対象地となった八か所の小字のうち、舟ケ台西通と狸ケ入が連光寺村分の開発地として広いことがわかる。連光寺村分の原地新田は、合計で、二五三筆だが、一筆当り、一反歩前後がほとんどであった。また、これらの土地は各家ごとに均等に分割されたわけではなかった。
表6―23 連光寺村原地新田の開発地・字名別面積および石高
小字名 筆数 面積 石高
舟ケ台東通 26 2町1反5畝 3歩 4石3斗0升2合
舟ケ台西通 50 7町6反7畝 0歩 15石3斗4升0合
赤坂 14 2町2反6畝 9歩 4石5斗2升6合
大水上り 25 4町2反1畝 0歩 8石4斗2升0合
天井返り 40 4町6反0畝12歩 9石2斗0升8合
狸ケ入 73 8町7反7畝18歩 17石5斗5升2合
早道場 199 1町6反6畝 3歩 3石3斗2升2合
諏訪の坂打越 6 6反9畝12歩 1石3斗8升8合
(注)〈史〉富澤政宏家伝来文書より作成。

 連光寺村分原地新田は、八六人によって所持されている。甚五左衛門の四六筆を始めとして、忠右衛門の二三筆・元右衛門の一四筆などのように多い場合もあるが、七割の六一軒は一筆ないしは二筆であった。さらに三筆の所持を加えると全体の軒数の八割にまで及んでいることになる。また筆数の多いのは七人で、この七人により筆数全体の四割を占めている。
 寛保元年十一月に作成された「原地代金割付帳」には、一〇〇名もの請負人が名を連ねている。しかし、その五年後の延享三年に作成された「新田検地帳」の時には、八六名と名請人が減少している。この理由については定かではないが、新田検地帳に掲載されなかった一四名は、林畑をも所持することができない零細な農民であろうと考えられる。
 廻り検地と新田検地における個々の割当反別と請負反別を比較すると、割合から見れば差が見られるものの、基本的には地代金を多く支払い、請負面積を広く請け負った家が、実際の原地新田を多く所持している。原地新田の請負面積は、開発地代金の支払に応じて行なわれたのである。