「村入用帳」が村のつきあいの内容をある程度表しているのに対し、祝儀帳と不祝儀帳は家々のつきあいの範囲や内容をみることのできる史料といえよう。婚礼の祝儀帳や葬儀における香典帳は、人々から贈られた祝儀や香典の金額や品物について記録し、おくる立場に立った際の参考にしたものである。
安澤秀一は、和泉国大鳥郡上神谷豊田村(大阪府堺市豊田)の小谷家伝来文書の断片から、寛文八年(一六六八)七月九日付の香典帳を復元し、分析・報告している(安澤秀一『史料館・文書館学への道』)。この事例からもわかるように、香典帳や祝儀帳が農村でみられるようになるのは、近世初期から中期にかけてであろうといわれ、より一般的になるのは中期以降とされている。それは、村落社会で、ことに上層農民の間で家意識が高まり、冠婚葬祭が個々の家々の行事となって、家と家とのつきあいが重要な意味を持つことが前提となるからである。
一般に「家」というとき、私たちが思い浮かべるのは、明治四年(一八七一)に戸籍法がつくられ、その後、同三十一年(一八九八)に公布・施行された民法によって、戸主権と長男子の単独相続制を体系化した「家」制度に象徴される「家」であろう。しかし、近代に入って国家が法制化したこの「家」制度の基盤となる家族の形態や、「家」に対する意識が、江戸時代にまったくなかったわけではない。江戸時代の一般農民の家においても、当主を中心にした家族の秩序は、武家のような格式ばったものではなかったにしても、ある程度は形づくられていたと思われる。家の相続も、「姉家督」や「末子相続」を慣習とする地域はあったが、全国的にみれば長男子相続を原則としていた地域の方がよほど多かった。
一七世紀後半から一八世紀にかけて、一般農民の家族形態は、家族の年齢周期によって親や兄弟姉妹の加わる時期もあるが、夫婦とその子を中核とした直系家族形態の家が広く成立し、同時に田畑屋敷の単独相続が支配的になる。農民にとっては、農業が先祖伝来の家業であり、先祖伝来の田畑の相続は家の相続でもあった。また、本来はキリシタン禁制のための寺院による寺請制度も、家ごとに「宗門人別帳」に記載された個々の家々が、それぞれ先祖供養をおこなう単位となることによって檀家制度を成立させた。これは、いっぽうでは寺院の経済的基盤になったが、他方では檀家個々が主体的に先祖を供養し、子孫へ伝えていくうちに、家意識を育んでいくことにもなった。