儀礼の種類

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では、この多摩市域内での「家」のつきあいは、どのような内容をもっていたのであろうか。
 表6―24は、当市域内に現存する近世期の祝儀帳と不祝儀帳(但し、市史編さん事業中の調査対象に限る)を、年代を一〇年ごとに、項目にしたがって分類したものである。これら祝儀・不祝儀帳の所蔵戸数は全部で一〇軒あり、史料点数は一九一点にのぼった(有山昭夫家・石阪好文家・伊野弘世家・太田伊三郎家・小林正治家・佐伯信行家・寺沢茂世家・富澤千司家・富澤政宏家・山口正太郎家伝来文書の各祝儀・不祝儀帳)。
表6―24 祝儀・不祝儀帳の項目別分類
葬儀 年忌 婚礼 誕生 年祝 寺社参詣 病気 普請 火事 合計 百分比
宝歴1(1751)~宝暦10(1760) 1 1 0.5
宝暦11(1761)~明和7(1770) 4 2 1 7 3.7
明和8(1771)~安永9(1780) 4 6 1 11 5.8
天明1(1781)~寛政2(1790) 4 2 1 1 1 1 10 5.2
寛政3(1791)~寛政12(1800) 4 4 1 1 1 11 5.8
享和1(1801)~文化7(1810) 7 4 1 1 13 6.8
文化8(1811)~文政3(1820) 4 6 1 1 1 13 6.8
文政4(1821)~天保1(1830) 6 5 4 1 1 1 1 19 9.9
天保2(1831)~天保11(1840) 11 5 3 1 20 10.5
天保12(1841)~嘉永3(1850) 11 6 3 1 1 1 23 12.0
嘉永4(1851)~万延1(1860) 13 8 7 3 1 1 33 17.3
文久1(1861)~明治3(1870) 9 8 4 2 1 2 1 27 14.1
年未詳 1 1 1 3 1.6
合計 79 56 24 12 7 5 4 2 2 191
41.4 29.3 12.6 6.3 3.7 2.6 2.1 1 1 100.0

 内訳をみると、葬儀・年忌・婚礼・誕生・年祝いや病気見舞、さらに家普請・火事見舞・寺社参詣など不定期なものも含んで多岐にわたっている。婚礼と葬儀とでは、形式も意味内容も全く異なるが、人が生まれてから死に至り、祖霊として祭られるまでのライフサイクルの、それぞれの節目におこなわれる儀礼であって、民俗学でいう人生儀礼にほぼ対応していることがわかる。
 これらの帳面のうち目立って多いのが香典帳の七九件(七八冊)で、全体の四〇パーセント以上を占め、年忌の五六件・約三〇パーセントをあわせると、七〇パーセントともっとも大きな比率を占めている。死にかかわる儀礼には、本人が直接関与することはできないが、家族や親族に及ぼす影響は大きい。死者や先祖の供養・祭祀が家単位の行事のなかで、いかに重要であったかを示しているが、全般的に葬儀が次第に盛大になり、あるいは死者が生前に村で果たした役割によって、葬儀は社会的な要素を強め、村中の参加する「家」の儀礼となっていったと考えられる。
 ついで多いのは婚礼祝儀の二四件で、一三パーセント近い数値を占めている。婚姻の成立は当事者二人の問題であるように思われるが、家族や村民など二人をとりまく社会が、その関係を認めることによって成り立つものであるから、社会的な要素のよりいっそう強い儀礼といえ、葬儀・年忌の不祝儀帳についで、祝儀帳のうちもっとも多く帳面が残存する理由もうなずける。以下、誕生一二件、年祝い七件、寺社参詣五件、病気四件と続き、他に火事・普請がそれぞれ二件ずつみえる。年祝いの七件には「帯解」・「髪置」・「三七之祝」の表題を持つものが入る。帯解きは紐解きともいい、幼児の着物の付け紐を取り、はじめて普通の帯を用いる祝いの儀式で、男子は五歳から九歳の間、女子は七歳の十一月に吉日を選んでおこなった。髪置きも三歳の十一月にはじめて髪を伸ばすときの儀式で、いずれも、のちの七五三と不可分の関係にある通過儀礼である。なかで「三七之祝」の表題を持つ文久元年(一八六一)十一月吉日付の帳面(<史>富澤政宏家伝来文書2028)は、具体的には三歳と七歳の男児二人の祝いで、おそらく髪置きと帯解きであろうが、幼年期の年祝いが「七五三の祝い」と総称されていく過程として興味深い。誕生の祝いと年祝いは、本人よりもむしろ成長を見守る家族や親族、ことに嫁の里親にとって大切な儀礼のひとつにかぞえられていた。

図6―24 お歌帯解祝儀受納控

 寺社への参詣は、信濃善光寺一件のほか四件は伊勢参宮で、わらじ銭と留守家族への見舞という名目で、貨幣や現物が贈られている。中世では一部の現象に過ぎなかった各所の寺社参詣が、江戸時代にはほとんど全国的に大量の実現をみるようになる。この大量参詣の背景には、農村経済の発展と貨幣の農村への流通や、伊勢講・頼母子講など参詣を目的とした講組織の成立、諸街道の交通・宿泊施設の充実、各所寺院・神社の宿坊・御師宿といった受け入れ体制の整備など、参詣や旅を可能にした条件があった。しかし、一人の農民が寺社参詣や物見遊山に出かけられるのは、一生に一度あるかないかのことであったから、本人はもちろん、家族や村にとっても大きな出来事であった。
 一般的に近世中期以降といわれる家の行事にかかわる史料がみられるようになる時期は、この地域においても例外ではない。しかし、十八世紀中ば以降、寛政十二年(一八〇〇)までにみられるのは、祝儀帳は乞田村有山昭夫家と和田村石阪好文家、不祝儀帳は同じく和田村石阪好文家と連光寺村富澤政宏家のあわせて三家に限られ、ほか七家でこれらの帳面が継続的にみられるようになるのは、近世後期、文化・文政期から天保期にかけてである。つまり、近世中期後半に家の行事にかかわる史料を残しているのは、それより以前から世襲またはそれに近い形で名主役を勤め、村のもっとも上層に属していた家々で、この状況が五〇年以上も続いたのち、近世後期になって、ようやく、しかし急速に、村役人を勤めるほどの他家にも拡大・定着していったということができよう。