前述したように、多摩市域内に祝儀・不祝儀帳を所蔵している家は一〇軒を数える。これらのうちから、この分析にあたって和田村の石阪好文家伝来文書のうち香典帳と婚礼・出産の祝儀帳を対象にした。同家所蔵の祝儀・不祝儀帳ともに、比較的長期にわたり継続して伝存されているというのが、その理由である。加えて、すでに紫芝昌子(「香典帳についての一考察」『地方史研究』二三四)によって考察されている連光寺村の富澤千司家伝来文書の香典帳を、補足的に取り上げた。
表6―25は、石阪家の香典帳に記帳されている初七日以前の香典と悔やみを、貨幣と現物に二分し、それぞれ項目別に分類したものである。同家の香典帳は明和元年(一七六四)から天保六年(一八三五)まで約八〇年間の一二冊が残されており、そのうち被葬者が記載されている五冊のうちの三冊は、妻や婿・嫁の実家の両親(舅・姑)など姻戚関係にある人々と推察され、三郎左衛門・伊三郎と記載のない七冊の合わせて九冊は、当主・当主の妻・両親および子の場合と思われる。
貨幣 | |||||||||||||
銭 | 青銅 | ||||||||||||
No. | 西暦 | 年号 | 施主 | 被葬者 | 100文 | 200文 | 300文 | 500文 | 10疋 | 20疋 | 30疋 | 40疋 | 100疋 |
1 | 1764 | 明和1.12 | 甚右衛門 | 三郎左衛門 | 3 | 17 | 2 | ||||||
2 | 1783 | 天明3.4 | 勘右衛門幾八 | 素光妙識大姉 | 5 | 34 | 4 | 1 | 1 | ||||
3 | 1787 | 天明7.7 | 甚右衛門 | きし市兵衛母 | 3 | 23 | 2 | ||||||
4 | 1790 | 寛政2.10 | 幾八 | ― | 1 | 24 | 1 | ||||||
5 | 1793 | 寛政5.2 | 甚右衛門 | ― | 5 | 33 | 6 | ||||||
6 | 1801 | 享和1.7 | 茂兵衛 | 図師 | 1 | 24 | 1 | ||||||
7 | 1801 | 享和1.9 | 甚右衛門 | ― | 11 | ||||||||
8 | 1808 | 文化5.2 | 品太郎 | ― | 27 | 2 | |||||||
9 | 1813 | 文化10.12 | 茂兵衛 | ― | 22 | 2 | 1 | 1 | |||||
10 | 1832 | 天保3.9 | 石坂氏 | はる母 | 25 | ||||||||
11 | 1835 | 天保6.閏7 | 杢右衛門 | ― | 29 | 1 | |||||||
12 | 1835 | 天保6.12 | 登保利 | 伊三郎 | 31 | ||||||||
件数計 | 13 | 266 | 17 | 1 | 5 | 34 | 4 | 1 | 2 | ||||
同百分比 | 3.5 | 71.9 | 4.6 | 0.3 | 1.3 | 9.2 | 1.1 | 0.3 | 0.5 | ||||
文換算高計 | 1300 | 53200 | 5100 | 500 | 500 | 6800 | 1200 | 400 | 2000 | ||||
同貨幣種別計 | 60貫100文 | 10貫900文 | |||||||||||
同百分比 | 67.9% | 12.3% |
貨幣 | 現物 | ||||||||||||||||||
金 | 南鐐 | 件数 | 文換数 | 白米 | 餅米 | 赤飯 | 素麺 | うどん | 茶 | 線香 | 念仏 | 手紙 | |||||||
1朱 | 2朱 | 3朱 | 1分 | 2分 | 2朱 | 小計 | 百分比 | 計 | 2升 | 量不明 | 2升 | 5升 | |||||||
22 | 5.9 | 4300 | 5 | ||||||||||||||||
45 | 12.1 | 9900 | 10 | 3 | 2 | 1 | |||||||||||||
28 | 7.6 | 5500 | 10 | 1 | |||||||||||||||
1 | 27 | 7.3 | 5700 | 6 | 1 | ||||||||||||||
5 | 2 | 51 | 13.8 | 14900 | 4 | ||||||||||||||
26 | 7.0 | 5200 | 10 | 1 | 2 | ||||||||||||||
11 | 3.0 | 2200 | 1 | ||||||||||||||||
1 | 1 | 31 | 8.4 | 7500 | 13 | 1 | 1 | ||||||||||||
2 | 28 | 7.6 | 7500 | 13 | 1 | 1 | |||||||||||||
1 | 26 | 7.0 | 5250 | 17 | 1 | 1 | |||||||||||||
5 | 3 | 1 | 1 | 1 | 41 | 11.1 | 12600 | 13 | 1 | 1 | 1 | 2 | |||||||
1 | 1 | 1 | 34 | 9.2 | 7950 | 13 | 1 | 1 | |||||||||||
7 | 7 | 1 | 8 | 1 | 3 | 370 | 92 | 24 | 1 | 1 | 1 | 7 | 1 | 6 | 4 | 1 | 1 | ||
1.9 | 1.9 | 0.3 | 2.1 | 0.3 | 0.8 | 100.0 | 88500 | 66.2 | 17.3 | 0.7 | 0.7 | 0.7 | 5.1 | 0.7 | 4.3 | 2.9 | 0.7 | 0.7 | |
1750 | 3500 | 750 | 8000 | 750 | 1500 | ||||||||||||||
17貫500文 | |||||||||||||||||||
19.8% |
件数・現物共 | 弔問者数 | ||||||||
件数 | 件数 | 男 | 女 | 集団 | 寺院 | 計 | 百分比 | ||
小計 | 百分比 | 合計 | 百分比 | ||||||
5 | 3.6 | 27 | 5.3 | 20 | 1 | 21 | 5.1 | ||
16 | 11.5 | 61 | 12.0 | 43 | 4 | 3 | 50 | 12.3 | |
11 | 7.9 | 39 | 7.7 | 29 | 2 | 1 | 32 | 7.8 | |
7 | 5.0 | 34 | 6.7 | 29 | 1 | 30 | 7.4 | ||
4 | 2.9 | 55 | 10.8 | 45 | 5 | 50 | 12.3 | ||
13 | 9.4 | 39 | 7.7 | 29 | 2 | 31 | 7.6 | ||
1 | 0.7 | 12 | 2.4 | 12 | 12 | 2.9 | |||
15 | 10.8 | 46 | 9.0 | 33 | 3 | 1 | 37 | 9.1 | |
15 | 10.8 | 43 | 8.4 | 31 | 1 | 32 | 7.8 | ||
19 | 13.7 | 45 | 8.8 | 30 | 30 | 7.4 | |||
18 | 12.9 | 59 | 11.6 | 45 | 45 | 11.0 | |||
15 | 10.8 | 49 | 9.6 | 37 | 1 | 38 | 9.3 | ||
139 | 509 | 383 | 17 | 2 | 6 | 408 | |||
100 | 100 | 93.9 | 4.1 | 0.5 | 1.5 | 100 |
香典帳には、香典または悔やみとして贈られた貨幣の金額・現物の品名と弔問者の名が記載され、天保期からは寺院への布施や買い物の入用費も記録されている。記帳はそれぞれ一人の人物によって行われ、ところどころ追加と見られる個所に異筆が混じる程度である。なお、香典と悔やみは別途に記載されているが、両方に貨幣・現物があり、同一人が両方に記載されている場合もあるので、表示の煩雑さを避けるため、この表ではいずれも一件として処理したことをことわっておきたい。
香典は、最初の明和元年(一七六四)の葬儀の際から貨幣が使用され、種類は銅銭・金貨・南鐐(なんりょう)の三種のほかに、「青銅何疋」と記載されている場合がみられる。南鐐は「金代わり通用銀」として鋳造された貨幣で、安永二朱銀(安永元年から文政七年まで通用)と文政二朱銀(文政二年から天保元年まで鋳造)の二種類がある。したがってこの表中、寛政二年(一七九〇)と同じく五年で使用されている南鐐は、安永二朱銀であろう。「疋」というのは銭貨の単位で、一疋を一〇文にあて儀礼的に使用したものであって、青銅で鋳造した貨幣があったわけではない。また金一分を金百疋と呼ぶ用法もあったが、それは銭四貫文を金一両にあてるという江戸幕府の定めた換算規準と、一疋=一〇文という銭の数え方があったことからおこったことである。したがって、例えば「青銅二拾疋」と記帳された香典は銭二〇〇文が包まれていたと考えられるが、「青銅百疋」と記帳されている場合には金一分の可能性も高く、貨幣の種類を判断することはできない。
香典の金額は、銭は一〇〇文から三〇〇文、青銅は一〇疋から三〇疋が大部分で、うち銭二〇〇文または青銅二〇疋の件数が全体の八〇パーセント以上を占め、八〇年間を通じてこの傾向に変化はみられない。いっぽう一八〇〇年代に入ると金貨の割合が次第に増加し、一朱か二朱および一分金が包まれている場合が多くみられる。金銀貨を銅銭の単位である文に換算(幕府の規準貨価一両=四貫文とする、ただし実際には変動がある)し、一二回分の葬儀の香典を合計すると八八貫五〇〇文になり、うち金銀貨は七回分にみえて計一七貫五〇〇文、全体の二〇パーセント近い数値に上る。農村における貨幣流通が、銅銭に限らず、規準価格のより高い金貨や銀貨の流通をみるに至っているのである。
元禄期以降、江戸という一大市場の一環に組み込まれていった近郊農村の人々の生活は、次第に変化を遂げる。商品として売ることを目的にした生産が盛んになり、貨幣経済が浸透するなどの経済面に限らず、江戸や他村へ奉公に出、寺社参詣の旅に出る人々も多くなっていった。また反対に諸社の御師や座頭・瞽女など村を通過する人々も増加した。これら物や人の交流は、同時にさまざまな情報をもたらすことにもなった。多摩の村々で、葬儀が家のつきあいとして行われた史料が作成された時点で、香典に貨幣を包み、しかも、すでに香典の世間相場があったとみられるのは、周辺の儀礼化した慣習の情報が伝達されていたからに他ならない。
現物は主に親類や村内の限られた家々から、悔やみとして持参された場合が多く、貨幣による香典の件数三七〇件に対し現物は一三九件で、ほぼ三分の一強に減少する。そのうちの八〇パーセント以上を白米(二升が中心)が占め、ほかに餅米・赤飯・うどん・素麺・茶といった食料品や線香なども若干みられる。ことに買い求めなければならない線香は天保期以降にみられ、年代が降るにしたがって品目は増加する傾向をもつ。また品物以外の例として、文化五年(一八〇八)の葬儀の際に、上和田村の念仏講中(二二軒加入)による念仏も香典として記帳されている。
祝儀や不祝儀の際の贈答の慣習について、民俗学では、日常的につきあいのある者が、祝儀や不祝儀のときに寄り集まり、ともに飲食をして、より結合を強めようとしたことが、その原初的な形態であるといわれている。ところが、社会関係が拡大し複雑になるにしたがって、共同で飲食する場への参加が不可能な場合が生じ、このような形態も変化せざるを得なくなる。悔やみに食品が多いのは飲料・食料を持ち寄って共同飲食をした名残りであり、この表に貨幣と現物の両方がみられるのは、本来現物を持参する形態をとった悔やみが減少し、貨幣形態をとる香典へ移行していく過程とみることができよう。
香典帳に記帳されている人数は、もっとも多い時で五〇人、少ない場合は一二人で、合計四〇八人のほとんどが男性名で占められている。女性の名前も若干あるが、「おば」・姉妹など親族と思われるものが多い。ほかに乞田村吉祥院・大塚村最勝寺・鎌倉我覚院といった石阪家の檀那寺以外の寺院が近世中期にみえ、後期に入ると上和田村の念仏講中が現れてくる。