持参された香典の種類

919 ~ 923
ところで表6―25によると、弔問者数は一二人から五〇人(平均三四人)、香典・悔やみの持参件数は一二件から六一件(平均四二件)と、死者によって葬儀の規模に差のあることがわかる。しかし石阪家の香典帳には被葬者の記載のないものが多く、葬儀の規模の差が何によって生じるのか、判断の資料がない。そこで連光寺村の富澤千司家の香典帳を参考に考えてみることにしたい。
 富澤千司家には宝暦八年(一七五八)から慶応元年(一八六五)に至る一〇人の葬儀の香典帳が残されており、表6―26は、その香典帳に記帳された香典と悔やみの分類表である。香典・悔やみの件数は、最少の二七件から最多の一三八件まで分布し、一〇冊の香典帳の合計は八〇八件(平均八一件)に上る。同様に弔問者数は一七人から一〇七人まで、合計六二二人(平均六二人)で、石阪家の葬儀の規模のほぼ一・五倍にあたる。
表6―26 富澤千司家香典項目別分類表
貨幣
青銅
No. 西暦 年号 施主 被葬者 100文 200文 300文 400文 10疋 20疋 50疋 100疋 200疋
1 1758 宝暦8.6 甚五左衛門妻の母 13 25 2 3
2 1827 文政10.8 宗左衛門 奥右衛門 14 38 5
3 1834 天保5.7 宗左衛門 奥右衛門妻 9 35 1
4 1835 天保6.3 宗左衛門 宗左衛門二男 9 16 3 2
5 1837 天保8.6 宗左衛門妻の母 1 6
6 1840 天保11.12 宗左衛門 宗左衛門二女 2 19
7 1849 嘉永2.6 造酒三郎 宗左衛門 4 19 3 6
8 1858 安政5.4 宗次郎 宗次郎母 4 24 1 1 1
9 1859 安政6.6 宗次郎 3 18 1 1
10 1865 慶応1.8 奥右衛門 奥右衛門母 1 1 12 12 13 8
件数計 59 201 13 1 1 12 13 26 10
同百分比 10.3 35.3 2.3 0.2 0.2 2.1 2.3 4.6 1.7
文換算高計 5900 40200 3900 400 100 2400 6500 26000 20000
同貨幣種別計 50貫400文
同百分比 14.9%
 
貨幣
青銅 件数 文換算高
300疋 500疋 1朱 2朱 1分 2分 3分 1両 2両 3両 小計 百分比
43 7.6 9900
6 6 7 1 1 1 79 13.9 44000
5 14 7 2 1 1 1 76 13.3 46450
3 5 1 39 6.8 15350
1 5 5 18 3.2 9050
1 4 5 31 5.4 11250
13 2 5 2 54 9.5 37600
10 8 13 6 68 11.9 37900
9 10 9 4 2 57 10.0 37450
1 3 43 6 5 105 18.4 89450
1 3 78 71 49 18 1 10 1 2 570
0.2 0.5 13.7 12.4 8.6 3.1 0.2 1.7 0.2 0.4 100
3000 15000 19500 35500 49000 36000 3000 40000 8000 24000 338貫400文
73貫文 215貫文
21.6% 63.5%
 
現物
白米 餅米 赤飯 小麦粉
No. 西暦 年号 施主 被葬者 2升 3升 8升 2升 ~5升 ~1斗 ~2斗
1 1758 宝暦8.6 甚五左衛門妻の母 3 1 1 1
2 1827 文政10.8 宗左衛門 奥右衛門 16 1 1 6 1
3 1834 天保5.7 宗左衛門 奥右衛門妻 15 1 7
4 1835 天保6.3 宗左衛門 宗左衛門二男 10 1 1 5
5 1837 天保8.6 宗左衛門妻の母 3 1 1 2 1
6 1840 天保11.12 宗左衛門 宗左衛門二女 11
7 1849 嘉永2.6 造酒三郎 宗左衛門 8 1 1 4 1 5
8 1858 安政5.4 宗次郎 宗次郎母 6 2 2
9 1859 安政6.6 宗次郎 6 1 1 1 3
10 1865 慶応1.8 奥右衛門 奥右衛門母 6 1 1 3
件数計 84 1 1 5 10 4 3 33 1 1
同百分比 35.3 0.4 0.4 2.1 4.2 1.7 1.3 13.9 0.4 0.4
 
現物 貨幣・現物共 弔問者数
素麺 豆腐 乾物 砂糖 菓子 果物 香典 蝋燭 件数 件数 寺院 合計 百分比
小計 百分比 合計 百分比
6 2.5 49 6.1 43 43 6.9
2 1 8 36 15.1 115 14.2 84 1 85 13.7
3 1 1 1 2 12 43 18.1 119 14.7 84 2 86 13.8
3 20 8.4 59 7.3 42 1 43 6.9
1 9 3.8 27 3.4 17 17 2.8
1 2 1 2 17 7.1 48 5.9 37 1 38 6.1
1 1 3 2 9 2 38 16.0 92 11.4 66 2 68 10.9
1 1 4 16 6.7 84 10.4 64 4 1 69 11.1
1 1 2 3 1 20 8.4 77 9.5 64 2 66 10.6
1 4 4 1 3 9 33 13.9 138 17.1 103 2 2 107 17.2
5 1 4 4 5 16 3 43 14 238 808 604 15 3 622
2.1 0.4 1.7 1.7 2.1 6.7 1.3 18.0 5.9 100% 100% 97.1 2.4 0.5 100%

 貨幣による香典は、金貨と銅銭が併用され、これらを全て文(=銅銭)に換算すると三四〇貫文近くに上る。このうち金貨の換算高は二一五貫文で、全体の約六四パーセントを占めている。石阪家に残されている関連史料が、近世中期後半からのものであるのに対し、後に述べるが富澤千司家に残された香典帳は、厳密には文政十年(一八二七)以降のものが対象となるから、両家の香典帳に現れる貨幣の種類の差異は、時代による農村における貨幣の流通状況の差異によるものであろう。すでに触れたように、近世後期には多摩市域における流通貨幣に金貨・銀貨をみるに至っていたからである。
 現物で持参される品目中、白米二升がもっとも多く、三人に一人強の割合になる。次に多いのが線香(一九パーセント)・赤飯(一四パーセント)で、ほかに餅米・蝋燭・菓子(饅頭・羊羹・煎餅)が続き、餅・小麦粉・素麺・豆腐・乾物(干瓢・干椎茸)・砂糖・茶・果物(西瓜・真桑瓜)などが若干ある。白米の持参件数は年代を降るにしたがって減少するが、近世末期に近くなると蝋燭や砂糖・果物などもみられるようになり、全体的な品目数は増加する。
 ところで、最初にみえる宝暦八年の香典帳は、多摩市域に伝存する香典帳のうち、もっとも早い時期のものであるが、次の文政十年までに七〇年の間隔があり、その間の香典帳が偶然残らなかったとするのは不自然であろう。宝暦八年の香典帳には施主名が欠け、被葬者は甚五右衛門の妻の母とあり、当主甚五右衛門の姑にあたる図師村(町田市)の修験本山派大蔵院の妻であったから、この葬儀の施主は、富澤家当主甚五右衛門ではない。つまり甚五右衛門が主体的に執り行った葬儀ではなく、当家で冠婚葬祭儀礼の史料が見られるようになる時期は、下げて考える必要があろう。
 同様に天保八年(一八三七)の香典帳の場合も施主名が無く、被葬者は当主宗左衛門の妻の母である。舅や姑が亡くなった時に、日常的につきあいのある家々や講中から預かって持参する香典を「旅香典」というが、前記の二件は、その香典帳にほかならず、ともに香典の件数・弔問者数が平均値を大きく下回るという特徴がある。
 そのほかの葬儀の場合の施主には、記載のない一例を除いて、当主名が記入され、被葬者は当主の父母、妻または子である。父母、妻の葬儀に比べて子の場合の規模は小さく、香典件数・弔問者数ともに平均値を下回っている。つまり、直系尊属と配偶者の葬儀に比べ、直系卑属と傍系親の葬儀は規模が縮小されているのである。
 石阪家の場合もおそらく同様に考えることができ、一二件の葬儀のうち三件は「旅香典」で、その他は直系尊属および配偶者と、直系卑属によって差異が生じているのであろう。