図6―26 石阪家を中心にした周辺村落
(内円から1キロメートルごと)
図6―27 弔問者の居住地分布
図6―28 婚礼祝儀持参者の居住地分布
図6―29 出産祝儀持参者の居住地分布
当時石阪家は中和田村の名主役を勤めていたが、自宅は上和田村にあった。この事情から祝儀・不祝儀のいずれも上和田村の村民がつきあいの主たる対象となっており、中和田村の村民が個別に上和田村と同様につきあうのは葬儀の場合に限られている。つきあいの地域的範囲は、四キロ=一里以内がほとんどで、六キロまでになると数軒、片道一時間から一時間半の距離内である。貝取(瓜生)・落合(青木葉)・図師の各村は「おじ・おば」と記載があり、周辺の村々の農家との間で縁組みをし、親類が日常生活の延長線上で密接なつきあいのあったこともわかる。
もっとも、これより遠隔地とのつきあいがなかったわけではなく、図に入れなかった地域に、江戸青山と鎌倉がある。石阪家では娘を江戸青山へ縁付かせていたし、香典帳の早い時期に、鎌倉八幡宮の供僧一二院の一我覚院の名もみえる。
我覚院は関戸藤井三重朗家伝来文書の寛政四年八月付「滞金内済証文」(資二社経12)の文言から、祠堂金の貸付をおこなっていたと思われるので、石阪家も藤井家も金融業を営んでいた関係から生じたつきあいであろう。寺院では、檀那寺の高蔵院のほか落川村真照寺の現住職・百草村倉沢の修験満蔵院などが婚儀の際に祝儀を贈っているが、乞田村吉祥院の隠居が鎌倉我覚院と同時期に香典を出しているのは、檀那寺と同宗派という理由よりも、金融業との関連であったと思われる。また一ノ宮の「かうじや」もみえ、商人と得意先という関係も見落とすことができない。
農業を家業とする農民にとって、「世間」のつきあいは、一義的には村のつきあいであった。しかし個々の家々が自立性を高めたとき、村とは別に、家と家とを結び付け、交際圏を拡大する一般的な契機として、婚姻や養子縁組み、農業以外の家職、当主の趣味、信仰(檀家・参詣講など)のほか、村での役職などさまざまなことが考えられ、石阪家の場合も例外ではなかった。趣味や信仰を契機とするつきあいの広がりは、史料を祝儀・不祝義帳に限定したためにみえてこなかったが、多摩市域における平均的な名主層の家のつきあいの形態を、近世中期半ばから末期までを通して概観してみた。