ここでは、まず、江戸時代における書籍の出版状況の概要について述べ、市域に残された書籍の特色を考える上での前提としたい。
江戸時代の出版文化は、享保期までは上方を中心にして展開していた。特に寛永期までは大寺院・公家・大名の私的な出版が中心であり、古活字を中心とした小規模なものであったが、寛永期に入ると製版印刷にかわり、本屋も増加していった。
元禄期頃の江戸の本屋は、そのほとんどが京都の本屋の直接の出店か、その縁故の者が商売を行なうといったものであった。江戸の本屋は、その扱う書物の性格から「書物屋」と「地店」に分けることができる。「書物屋」とは、いわゆる一般書を扱う本屋のことで、これに対して「地店」とは、「地本屋」とも称し、江戸で創られた娯楽的な読み物を扱う店のことであった。享保期に至ると、江戸の「書物屋」・「地店」の店数は増加し、安永・天明期になると、京都からの出店は徐々に消滅し、江戸で生まれた「書物屋」や「地店」が大半を占めるようになった。書物の出版数も享保末期から江戸板が増加しはじめ、宝暦期頃には京板・大坂板を合わせた数よりも、江戸板の数が多くなった。享保期から宝暦期にかけて、出版文化の中心は上方から江戸へ移行していったのである。
また、書物の出版状況は幕府の政策の影響も大きく受けていた。幕府は薩摩藩主島津吉貴より献上された、明末の范鉱による『六諭衍義』の訓訳を荻生徂徠に命じ、享保四年(一七一九)『官刻六諭衍義大意』として出版した。『六諭衍義』は教民的内容を持ち、全国の寺子屋で手習本として利用されており、多摩地域における村役人家の蔵書中にも頻繁に見られる書物である。このような幕府の政策の影響を受けて、江戸では教訓的な読み物が多く出版されるようになった。のちに儒教理念に基づく読本が増加していったのも、こうした幕府の政策を反映していると言えよう。
近世後期に至ると、江戸における新刊本の出版数は伸び続け、書物問屋仲間・地本問屋仲間・貸本屋の数も増え、書物を中心とする印刷物は、芝居・寄席・講などとともに情報メディアとしての機能を高めつつあった。その一方でメディア全般に対する統制も厳しくなり、時事や風聞を取りあげた書物や一枚絵をはじめ、華美なものや仲間外板行・無届け板行が禁止され、書物問屋仲間・地本屋仲間行事による取締りの励行がたびたび命じられた。しかし尊号事件を取材した『中山物語』に見られるような時事や世事を取り上げたものは、写本(書本)の形で売買されたり、貸本として広がっていった。また、京都から始まった名所図絵の流行をうけて江戸においても寛政期から文化期にかけて名所記や物産記の刊行が盛んになり、『日本山海名所図会』などが刊行された(今田洋三「一九世紀のメディア事情」、竹内誠編『日本の近世』14文化の大衆化)。
書物の出版は京・大坂・江戸に限らず地方においても積極的に行なわれていた。地方出版は寛政期頃より活発化し、文化期から安政期にかけてピークを迎えた。寛永期から延宝期にかけての地方出版は高野山や奈良などといった畿内周辺の宗教上の特殊地域が主であったが、享保期以降、これらに加えて城下町が中心になっていった。寛政期から天保期にかけては国学の浸透をうけて津・松坂などでも出版数が増加した。関東地域の場合、江戸近郊であるためか、水戸をのぞいてはそれほど積極的ではなかったが、地誌・絵図・往来物・節用集といった実用書の出版が多かった(大和博幸「地方書肆の基礎的考察」、朝倉治彦・大和博幸編『近世地方出版の研究』)。
つぎに多摩市域に残された書籍を通じて村人の書物に対する関心について見ていきたい。