表6―31は富澤家の日記をもとに安政四年(一八五七)から安政六年(一八五九)にかけての忠右衛門の読書記録をまとめたものである。この時期、忠右衛門は名主見習役であった。表6―31によると、忠右衛門は歴史・文学・兵学等、様々な分野の書籍を読んでいたことがわかる。このうち、『平家物語』・『百人一首拾穂抄』・『先哲叢書』は現存の富澤家の蔵書中に確認できる。
安政4年 | |
「向ケ丘軍記」後編を選述する。 | |
兵学『孫子』を読む。 | |
兵学『呉子』を読む。 | |
「七曜之陣図」・「九曜之陣図」を作成する。 | |
『尉鐐子』を読む。 | |
安政5年 | |
『周易』を読む。 | |
『周易』を読む。 | |
『周易』を読む。 | |
『書経余抄』を読む。 | |
『平家物語』を読み始める。 | |
『平家物語』を読み終える | |
『百人一首拾穂抄』を読む。 | |
『先哲叢書』を読み始める。 | |
『先哲叢書』を読み終える。 | |
安政6年 | |
「豊臣実紀」を読み始める。 | |
安政四年(一八五七)一月二十五日の日記に「向ケ岡軍記後編撰述」とあるが、これは文化期から続く連光寺村の村方騒動の経緯をまとめたものである。「向ケ岡」という名称は古歌に詠まれた概念的地域であるが、多摩地域では化政期頃より、関戸村周辺を示す地名として定着していた。「向ケ岡軍記」には、村方騒動の記録を軍記物語になぞらえ、さらには「向ケ岡」と称している点に特色がある。同家の書籍中に軍記物語が多く含まれていることも、こうした動向と無関係ではないであろう。
また、この時期、富澤家では『孫子』・『呉子』・『尉鐐子』といった兵学関係に興味を持ち、「七曜之陣図」・「九曜之陣図」といった陣形を作成している点が注目される。連光寺村では、慶応二年(一八六六)、地域の取締りのために農兵を組織しているが、このような動向とも関わりがあると思われる。