村人たちが読み書きによって得た知識は日常生活の様々な場面で生かされていたと思われるが、ここではその一例として、連光寺村における桜の植樹をとりあげ、読み書きを通じて得た知識がどのように地域に還元されていったのかを述べてみたい。
万延元年(一八六〇)二月二十一日、連光寺村では、名主忠右衛門によって桜の植樹が行なわれた。この経緯について、富澤家の日記に「今日、北台持山縁連なり、ならびに村持分等へ本村・馬引沢・諏訪坂連中一同にて桜苗木植付け、但し庚申之境内を花の本と定め、前後番付地割り世話、白鳳・秀香・末仙、凡三百本今日植込に成り」と書かれている。連光寺村では村内の北部、富澤家が所持する山と村持の山に桜の苗木三〇〇本を植樹した。植樹は白鳳・秀香・末仙の差配によって進められ、山上の「花之本之社」(=庚申の境内)を起点に植樹場所の区画が行なわれた。植樹には、本村・馬引沢・諏訪坂の人々が参加した。植樹を差配した白鳳・秀香・末仙とは連光寺村百姓初五郎・忠五郎・音四郎の俳号である。
この植樹に関わった村人については「新吉野桜植附連名帳」(〈史〉富澤政宏家伝来文書2096)、「向岡里桜植附名簿」(〈在〉富澤政宏家伝来文書)から知ることができるが、苗木の購入者と植樹者とは多少異なるようである。苗木の購入数は忠右衛門がもっとも多く三〇本を数える。植樹者は村役人に限られることはなく、また経済的に優位であった者にも限られない。この植樹は連光寺村および周辺地域においてどのような意味があったのであろうか。
この植樹によって、忠右衛門は植樹場所を「向岡新吉野」と称し、村内の新名所として位置付けた。「向岡」とは『新勅撰和歌集』に収録されている小野小町の和歌「むさし野のむかひか岡の草なれは根をたつねてもあはれとおもふ」からとったものである。つまり、「向岡」とは古歌に詠まれた観念的地域であって明確に場所が規定されているわけではなかった。関戸村名主相沢伴主は関戸郷の由来を記した「関戸旧記」のなかで、「向岡」について「関戸村西裏の岡を始めとして東に続く岡」と位置付けている。忠右衛門は、この伴主の理解に従って植樹場所を「向岡」と称したのである。伴主や忠右衛門の「向岡」の理解は江戸幕府の編纂による地誌『新編武蔵風土記稿』とも異なっており、この地域固有の理解であったと思われる。「向岡」とは、地域の人びとの文化的関心から持ち出されてきたものであったのである。さらに、多摩川流域村々の村役人層の協力によって、相沢伴主による川絵図『調布玉川惣畫圖』が刊行され、「向岡」は、地域の村役人層においては共通の認識になっていた。そこには、村役人層を中心とする村人たちの識字力の上昇があり、和歌・俳諧・歴史等に興味を持ち、読み書きした村人たちの姿が見えてくるのである。そして、植樹によって創りだされた「向岡」という新名所は「関戸旧記」を目にしたことがない村人たち、および連光寺村を訪れる人々に当地域を印象づけることになったのである。
ここでは、市域に残された書籍を通して、読み書きした村人たちの姿を紹介してきた。市域には、まだまだ多くの書籍が残されていると思われるが、書籍の残存状況の全体的な傾向としては明治以降に刊行された書籍が全体の半数以上を占め、そのほとんどが教科書であると言うことができる。このことは、村人たちが容易に本を手にすることができるようになってくるのが、明治以降であったことを示していよう。各家の蔵書を丹念にみていくと、書籍の蓄積はそれぞれの家の性格を反映しており、村役人・神主・千人同心といった職務上の必要性だけではなく、和歌・俳諧・華道・武芸といった趣味や教養の面からも書籍が蓄積されていることがわかる。蔵書は家によって様々である一方、共通性も見られた。同一の本の写本を複数の家が所蔵している事例は読本や実録等に多く、一冊の本を写本を作成し複数の人々が読むことによって共通の関心事になっていった状況が窺われる。村役人家の蔵書の貸し出しや貸本屋の存在も人々が本を手にする重要な機会であった。
読書を通じて得た知識は、村の運営をはじめ様々な形で地域に還元されていった。万延元年(一八六〇)、連光寺村において行なわれた桜の植樹もその一例である。古歌に詠まれた「向岡」という観念的な地域が新名所として捉え返されていった背景には、村役人層を中心とする文化ネットワークの形成がある。村役人層において共有されていた知識は、植樹を通して広く一般にアピールされることになった。読み書きを通じて得た知識は様々な形で村人たちの日常生活を豊かにしていったのである。