村境論争のほかに、多摩川の渡船権益をめぐる出入りも多かった。残された史料は権益をめぐる訴訟に関係するものがほとんどであり、史料批判なしにそのまま信ずるわけにはいかないという難しさがある。また往古の渡船もあったであろうが、多摩川流路の変化を追っては詳細は不明というしかない。
多数の権益争論のなかには、村と村との争い、渡船維持のための村々のつながりのなかでの渡守過怠をめぐる争論や、村の内部でのさまざまないきさつがあった。まず村と村との係わりあいをみてみよう。
一ノ宮渡船をめぐっては、南岸側の一ノ宮村と北岸側の中河原村とが争論している。まず寛政三年(一七九一)の出入りの史料が残っている。十月、一ノ宮村が幕府勘定奉行曲淵甲斐守(景漸)の元へ訴え出た。その主張は、一ノ宮村前の玉川筋渡船と土橋とも一ノ宮村で取り計い、御本丸御上鮎・鷹匠方相州筋通行も差支えなく渡して来た。しかるに当八月出水後、中河原村が新規に渡船を企て、そのうえ新土橋を懸け、一ノ宮村の仕来たりの渡船、冬土橋の妨げになっている、というものであった。訴えを受理した勘定奉行は十月十三日評定所へ召喚し、相手方の中河原村からも返答書をとった。
中河原村(名主唯右衛門・百姓代文吉)の返答は、四、五〇年前より多摩川の川瀬が二瀬となり、一瀬は中河原村で渡船し、一瀬は一ノ宮村で渡船し、冬には中河原村で土橋を懸けている。これを新規と言って今般訴え出られたのは、心得難い、というものである。結局、十二月になって連光寺・関戸・四ツ谷・本宿・府中宿・是政の六か村が引合に召し出された。
連光寺村の名主儀兵衛が勘定奉行へ提出した返答書によれば、渡船は往古は連光寺村の持だったが、渡守がいないので、関戸村に譲り、さらに一ノ宮村に移った。船が古くなったので、しばらく越川(徒越ということであろう)していたが、荒川役所からの御上鮎を流してしまい、一ノ宮村に咎(とが)おおせつけられた節、隣村で加組を作り船を作るように仰せ付られたので、二七か村で船を作り、御用私用ともに用便してきた。もっとも十一月から四月までは仮橋を一ノ宮で掛け、その費用は加組村で出銭してきた。これまで中河原村渡船と申したことはない、というものであった。
富澤家文書には、年不詳だが、押立村の船頭が連光寺村名主に充てた、橋代金受取や、船の打替入用金の受取が残っており(〈史〉富澤政宏家伝来文書1884)、すくなくとも一時期押立村にも渡船や土橋があったことが窺われる。右の儀兵衛の申し分には押立村は出てこないが、多摩川が移動する関係からも、渡船場所はかなり可変的であったと推測される。
隣り村々の引合によって内済が成立するが、その結果は、今度出入りの渡船場は、両瀬とも中河原村地内を流れているが、往古より一ノ宮村で渡船をしているので、一ノ宮村で渡船する。冬土橋は川筋がいく筋になろうとも、しきたり通り一ノ宮村でかける。その費用はこれまで通り中河原村も負担する。中河原村は両瀬とも地内なのでこれまで通り「川越」するものとする、というもので、内実は一ノ宮村の勝訴であった。内済証文には一ノ宮と中河原村の名主・組頭のほか、引合の府中宿・関戸・是政・四ツ谷・屋敷分・本宿・連光寺村の名主や組頭たちも連印している(同家伝来文書985)。
この争論の経緯から、いくつかの事実と認識とが窺われる。渡船の維持経費のため二七か村の加組村々があり、冬の十一月から翌年の四月まで多摩川に掛けられる土橋の経費、新しい船を作る場合の経費を負担していること、流路の変化で、二つの瀬に分流した多摩川は中河原村の中を流れているが、その渡船権利は中河原村にないとされたこと、渡船権利の正当性に、御上鮎・鷹匠らの運搬・通行といった公用を果たしているという点が主張されていること、加組による経費維持の方策もその係わりで成立したこと、などである。
南岸側の利益に立った連光寺村名主の発言は、中河原村渡船と申したことはないというもので、何らかの渡船の事実を否定しているわけではない。のちの経緯からすると、耕作のための渡船は問題でなく、通行・旅行人の渡船が問題とされ、その権利の確保が問題となっているのであろう。
なお、ここに出てくる荒川番所は、現在の城山町にあった。津久井地方から相模川水運によって出荷される薪炭・木材・柏皮・竹皮などに五分一運上を課す代官支配の番所で、明治期の廃止時には鮎税請負に係わっていたことも確認されている(小川良一「荒川番所について」『広報しろやま』六一・一)。また土橋が冬の間だけなのは、一つには水量のためであるが、多摩川は江戸へ送る材木筏が流されたためである。こうした筏は連光寺村からも出していた(資二社経154)。
しかし右の経緯だけでは本当の姿は分からない。当時の訴訟は内済か、内済が成立しなければ裁許が出されて落着するが、これらの内済証文に書かれていることは表向きのことであり、これだけがすべてではなかった。実は奉行所には提出しない「内議定之事」という文書が取り交わされている(〈史〉富澤政宏家伝来文書1884)。これによると、奉行所の命令で内済証文は五通作成され、奉行所、訴訟方、相手方、引合方が引き取った。しかしこの内済証文の通りでは、中河原村に憤が残り、また中河原村は近年おびただしい川欠を受けて難儀していることを扱人らが気の毒と同情して、一ノ宮村の橋・渡船の上がりを少々扱人らが申し請け、中河原村へ与えるということが取り決められた。
この「内議定之事」の内容は以下のとおりである。①訴訟以前に中河原村が掛けた橋が撤去させられたのは、気の毒ということで、橋代として一ノ宮村は金二両を扱人を通して中河原村へ支払う。ただしこれは当年一年かぎりのこととする。そうした以上はもはや橋は一ノ宮村のものとし、渡し方は一ノ宮村の仕来たり通りにする。来年三月に橋を引き払う際は、諸色(木材や材料)は南の一橋は一ノ宮村が引き取り、北の一橋は中河原村が引き取る。②一ノ宮加組(柚木領一五か村・日野領一二か村・府中領五か村の都合三二か村として、先の訴状と村数に差がある)からの出銭・出石は一ノ宮村渡守が受け取り、中河原村はいっさい口出ししないこと。そのほかの往来旅人からの橋銭は一ノ宮渡守庄兵衛が取り集め、三分の一を中河原村へ与え、三分の二を渡守が受け取る。そのかわりに多摩川の北側の小瀬には、中河原村が諸色を負担して橋を掛けることとする。③表向きの済口証文には一ノ宮村の橋・渡船ということになっているので、中河原村は加組村々へは「一銭半銭たりとも」いっさい無心をせぬこと。④この趣に万一違反した場合は、この議定を破談にし、奉行所へ提出した済口証文の通りに取り計らうことにする。最後に「右者御奉行所江差上候済口外之儀」であるが、中河原村と一ノ宮村が和熟して今後は睦まじくなるよう説得して、納得したので内済し、証文を扱人が預ると断っている(そのため富澤家に内済の本紙が残った)。幕府の裁判での内済とは別に、在地での本当の内済のほうが尊重されているのである。