享和の再論

960 ~ 967
寛政三年(一七九一)十二月の内済(表向きと内実の二通りあるが)によって渡船権利は一ノ宮村に確保されたはずであったが、わずか一一年後の享和二年(一八〇二)、またもや中河原村と再論となった。七月に一ノ宮村の年寄八左衛門と渡守の清吉が、中河原村の非法を勘定奉行所へ訴え出た。その訴えによると、先の内済にもかかわらず、中河原村側は再び、中河原村地内での一ノ宮渡船を差し止めたため、やむをえず、不勝手ながら渡船場を下川原村のところまで引き下げた。そうすると中河原村の者は一ノ宮村が渡船していた旧来の場所で渡船を始め、往来の旅人を渡すようになった。それを見咎めると、「中河原村の地内で渡船をするのに、外の村からとやかく言われる筋合ではない」と言って渡船を強行している。これは渡船賃銭を押領している行為だとして、先の内済通りに復旧するように求めている(〈史〉富澤政宏家伝来文書1891)。
 訴状は勘定奉行石川左近将監忠房に受理され、八月十三日に出頭すべきとの差紙が出された。
 中河原村の返答書は同じく八月十三日付で、名主唯右衛門と組頭幸右衛門は煩いということで、組頭利八の忰良助と百姓平八が出している。その内容は要約すれば以下の通りである。①中河原村は多摩川出水のたびに田畑屋敷は五分通り川欠になることは御割付(年貢割附状のこと)にも記載がある。多摩川本瀬枝瀬二瀬とも中河原村地内の田畑亡所跡を流れ、平日この二瀬を越えて農業あるいは秣刈取りをしている。②訴訟方(一ノ宮村)は両瀬に船一艘あるだけで、北瀬には船がないので、私共のほうで前々から「歩越」しているが、出水の節は向こうべりの作場へ渡るため、田舟を補理して通行していることは前々からのことである。③近村の者も、格別出水の時は見捨て難いので私共の田舟で渡してやっている。④しかし一ノ宮村とて御定めの渡船場というわけでもない。往古とは違い川瀬は中河原村地内を通っている。年貢は御引になっているが、高掛諸役なども勤め、川運上も納めている。一ノ宮村は川運上も納めず、中河原村地内で稼ぐのみならず、二瀬を舟一艘で稼ぐべき筋ではない。⑤毎年六月二十七日より七月十七日までの二〇日間、相州大山石尊へ参詣する者は、川北の村々から毎日およそ千人くらい通行する。当六月二十八日・二十九日は大雨で玉川が出水したので、中河原村前は多摩川二瀬なので、一ノ宮村は勝手に下川原村前へ舟を引下げ、往来を勝手に替えた。府中端にある石碑道標に「右大山道」とある前に「左大山道」と大書きした杭を建てた。関戸村端には「左府中宿道」と書くべきところ「右府中宿道」と書いた杭を建てた。⑥例年通行道の村々は、商・駄賃銭のはげみがなくなり、村々難儀なので、渡船場所を引き上げ、いつもの所で渡船するよう、度々申し遣わしたが、水が引いて歩越できるようになったら舟を引き上げる、との返答は船頭とはいえ、我儘勝手の取計いである。⑦訴状には、我々が舟を差留したので、下川原村前へ舟を下げたと出張しているが、府中・関戸の建石を書換えたのは勝手な渡世の巧みである。⑧一二年以前(江戸時代はその年も一年とかぞえるので、今の言い方だと一一年前)の亥年(寛政三年)出入の内済証文に、一ノ宮は渡船、中河原村は川越とあるのを、勝に乗じて舟の上げ下げを自由にし、往来の者を難儀させている。⑨二瀬の間はよほど隔たりがあるので、歩越の節は差支えないが、いささかでも出水すると、二瀬に一つの舟ではどうしようもない。川運上も納めているし、川は中河原村地内を流れ、川向こうに作場があるのだから、一瀬は私共の田舟渡を認めて欲しい。近村とても差支えはないとの書付を私共へくれている。
 中河原村の返答書は先の内済証文には直接触れず、もっぱら現状の理不尽さを訴えるものとなっている。今度の出入はすこしもつれたようで、内済は成立せず、翌年三月二日に勘定所の判決を受けている。
 今度の出入でも、またもや関戸村・連光寺村の名主が引合として呼び出されている。連光寺村の名主家であった富澤家には、この訴訟の経緯の記録が残っている。このなかで「市之宮村渡船一件引合言上控」(〈史〉富澤政宏家伝来文書1891)は訴訟の具体的な様子が分かる希有な史料であるので、以下この史料を概観してみよう。視点は引合人の連光寺村名主(途中から組頭両名に代わる)の目からである。やや原史料を加工したが、補足説明は( )で示した。
 八月十三日の原告被告の対決により、関戸村・連光寺村名主に召喚状が出されることになった。これを請けて八月二十一日、関戸村の林蔵と連光寺村の文平は出府した。まず麹町一丁目の松坂屋重四郎方に行ってから、すぐに奉行所へ出頭した。出頭するとまず、両村へは名主組頭両人ずつ召喚したのに組頭がいないことを咎められた。それで両村の組頭は病気なので両名で引受けたいと言うと、書付にして願い出るようにと指示され、その通りにすると呼出があるまで江戸宿に差し控えているようにと申し渡された(松坂屋が江戸宿であろう)。
 九月十五日、呼び出しがあったので出頭する。掛は吉岡寅次郎様(寅治郎とも、石川忠房の公用人)で、その吉岡様が言うことには、「その方の隣村の中河原村・一ノ宮村の渡船一件につき、両村に対してせんだってから利解申し聞かせているのだが(利解申し聞かせる、とは道理をいい聞かせて納得させるという意味)、中河原村の名主が不埒(ふらち)な事を申し募って一向埒があかない。それで其方どもは一二年以前の一件済口証文をどのように心得ているのか」とお尋ねになった。それで一同は、「私共は先の済口証文の通り一ノ宮渡船場と心得ています」と申しあげた。その後で中河原村名主の唯右衛門は、「一ノ宮村の舟守清吉は朝五ツ時(午前八時ころ)から出て、夕七ツ時(午後四時ころ)にはしまいにします。近村の者が伝馬に出て、夜中になって帰る時には、私の村に頼みますゆえ、よんどころなく、作場舟を出して渡してやっています。しかし往来の旅人を渡すことはありません」と申し上げたので、吉岡様は「関戸・連光寺村で中河原村に渡船を頼むことはあったのか」とお尋ねになった。しかし我々は「けっして中河原村に渡船を頼むことはありません」と申した。唯右衛門はなおも「名主たちからはなくとも、小前の者たちからは頼まれています」と申し立てた。吉岡様から唯右衛門へ、「一二年以前の済口証文を破約にし、新規の渡船を始めたために、この出入が起きたのである。村々大勢引合に出されて難儀させるから、この後はけっして渡船はせぬと申すか、もし納得できなければその旨を言上せよ」と申しつけて、来る十九日までに決着を命じられた。
 九月十七日、飯田町九段の植木屋に訴訟方・相手方、引合人が残らず集まり、内済の掛合いとなった。訴訟方は、「先済口証文の通りとなし、そのうえ、新規渡船を始めたのは心得違いだったと書き入れれば、内済してもよい」との言い分であった。しかし相手方の唯右衛門が「表向は渡船をやめるという事にして、内証にて一瀬は当村で渡船することにしてもらわないと、内済できない」と言ったため、引合人一同が「ひっきょう、中河原村の新規渡船がことの起こりである。新規渡船を停止するのは当然だ」と申し入れたが、聞き入れないため、早速破談した旨奉行所へ届け出ようとした。しかしここで宿方の佐兵衛が、「今すこし腰掛で掛け合った方がよいでしょう」というので、そういうことにして皆引き取った。
 九月十九日、訴訟方・相手方・引合人一同腰掛にうちより掛け合ったが、やはり一瀬は渡船したいという中河原村は納得せず、奉行所へ内済破談を届け出た。差し控えが命じられたが、召し出されたので出頭した。訴訟方・引合人へは吟味はなく、もっぱら相手方だけが吟味された。
 九月二十七日、呼び出されたので出頭すると、「その方村々にては、渡守清吉へ何を与えているのか」と尋ねられた。「関戸・連光寺村からは、冬土橋の茅を提供しています。ほかの村々は夏麦二升ずつ、秋籾二升ずつを与えています。この内には代銭で与える村もあります。新規に舟を作り替える時には加組二七か村で割合出金しています」と申し上げた。「中河原村が渡船して、その方村々で差し障りはないのか」と尋ねられたので、「差し障りはありませんが、一ノ宮村渡船でただ今まで何の差し支えはありません」と返答したら、下がってよいと言われた。

 十月十五日連光寺村名主文平は、親の病気を理由に帰村願を出し、代わって組頭奥右衛門が引合の仕事を引き受けることになった。奥右衛門も後に帰村願を出して組頭幸右衛門が代わるが(十一月九日)、史料の筆跡も変っている。
 十月二十三日、呼出があったため出頭。関係する村々の地頭名前書の提出を命じられる。飛脚を出して確認したいと願い出て、日延べが許される。再び加組が何を出しているのか尋ねられ、先日の答えを繰り返す(ただし、下落合村は金一分を出し、落川村からは人足を出す、と詳しくなっている)。中河原村は何を出していたのか尋ねられるが、何もないと申し上げたが、中河原村から土橋一つは掛けているとの返答があった。……(中略)……中河原村から、府中宿から中河原村へ舟を頼む書付が証拠として出されたが、先の済口証文に府中宿も連印していたのに不埒だということになった(寛政三年の済口証文には府中宿年寄平蔵が押印していた)。そこで府中宿役人が呼び出されることになった。
 十月二十九日、呼び出されたので出頭。府中宿役人が召し出されていた。
彼は内済のため双方に掛け合いたいと申し出たため、十一月四日まで期限が与えられた。
 十一月五日、内済整わず、一同から破談を届け出る。
 十一月六日、呼び出しにより出頭。府中宿役人へ、府中宿から中河原村への渡船頼みの書付について御尋ねがあった。府中宿役人は、「多摩川の北村ですので、川には不案内なもので……それで中河原村は川付なので頼みました。書付は下役の者が書いたので、よくは分りません。書付も多くはないはずです」と返答した。この時一ノ宮村から証拠として、渡船用意依頼の書類を提出した。関戸村から一ノ宮村へ出したもので、府中宿・是政村からのものもあった。「府中宿が右の通りに申す上は、中河原村はいかが」と御尋ねがあり、中河原村は「村方はことのほか川欠で難渋しています……」と申し開いたが、「その方の村だけが難儀しているのか。前後の村々も難儀なのではないか」と申し渡された。

 審議はまたも一ノ宮村の優位の内に経過していった。しかしここで中河原村は冬に掛ける土橋の構築にとりかかり、掛けてしまったようである。訴訟中の実力行使に、十一月十日、一ノ宮村から奉行所へ訴えが出された。
 十一月十四日、引合人呼び出し。公用人様が出てきて、「中河原村が土橋を掛けたと。誰の指図をもって掛けた」と激怒して(原文「大気にいかって」)、「早々に取り払わせ、請書を出せ」と仰せ付けられた。
 十一月十五日、御呼び出し。中河原村がなぜ土橋を掛けたのかと叱られた。名主唯右衛門は「先規により北の一橋は掛けましたが」と申し上げたが、「いや、一橋なりともならぬ」と御叱りになった。中河原村平七は「名主は先の済口証文を百姓に知らせていません。あの済口証文では再論は避けられません」と発言した。

 十一月二十三日、今度は一ノ宮・関戸・連光寺・落合・柚木村から、土橋は例年十一月中旬に掛けていたが、この節の吟味中で今年は掛けていない、寒気に入り、旅人や加組村々の者たちが難儀であるかあら、これまでの仕来の場所に土橋を掛けたい、との願書が提出された。これは許可されたが、二十七日に中河原側もあらためて土橋架橋の許可を願い出た。
 十一月二十七日、呼び出しにつき出頭。吉岡寅次郎様が出てきて、土橋を掛けたいとの中河原村の願書は差し戻された。押して願わぬようにとお叱りを受けた。
 十二月六日、深川の松平兵庫頭様(信行、勘定奉行)の屋敷で内寄合とのことでそちらに呼び出された。しかし吉岡寅次郎様が病気だとのことで早々に引き取った。
 十二月九日、呼出につき出頭。吉岡寅次郎様が出て、中河原村へは土橋を取払ったか取払っていないかで言葉を左右にしたことで叱責し、さらに「なんのつもりで橋掛の願書を出した、ふとどきな」と大いにお叱り。印形した者へもお叱りがあった。だれも口を開くことができなかった。

 三人の手になるこの史料はここで終わっている。史料の合間には、訴訟の引合にかかった経費が書き込まれているが、合計三一八三文。美濃紙代(二〇文)や願書紙代(七文)、腰掛入用などであるが、経費の一部だけかもしれない。その後の経緯は不明であるが、経費書上をみると、なおも引合が呼び出され、何度か証文の提出があるなど紆余曲折があったことが窺われる。翌享和三年三月二日付の、奉行所判決に対する請書は『資料編二 社会経済』に掲載されている(134)。相対で一瀬は渡船したいとの中河原村の願いは却下され、二瀬とも一ノ宮村が渡船すること、土橋二つの内一つは中河原村が掛け渡し、橋銭配分は相対で決めること、訴訟中に中河原村が勝手に土橋二か所を掛け、取払い命令も無視した上、それをまた押し返して土橋掛願を出したのは不埒であるとして、名主・組頭に過料を課すことなどが命じられた。最終的な引合は、連光寺村組頭利左衛門、関戸村組頭忠七、府中宿役人惣代年寄彦兵衛、大塚村ほか二二か村役人惣代として上柚木村組頭伝左衛門の四名が連印している。
 この一件では、中河原村は内済証文にまっこうから挑戦したが、内済内容を一つでも変更しうるものではなかった。土橋掛けの行動などは名主が小前らの行動を押え切れない情況を窺わせる。勝算のなかったであろう行為にあえて踏切ったのは、それだけ深刻な川縁の条件の中でのやむにやまれぬ行動だったのかもしれない。大山参りの旅人通行は、船渡賃だけでなく、多摩川前後の道筋の村々にとっても、小商や駄賃銭の稼ぎ場となっていた。渡船場所が移動し、道筋が他村にかわることは、深刻な影響を与えたのであろう。
 また享和の再論でも公式の内済とは別に、秘密条項的に有利な条件を得ようとする中河原村唯右衛門の発言が目を引く。もちろん奉行所へは、訴訟方も引合方も寛政の時の「内議定之事」についてはいっさい口に出していない(中河原村が申し立てた疑義は残る)。しかし奉行所の吉岡の、「其方どもは一二年以前の一件済口証文をどのように心得ているのか」(原文は「拾二ケ年以前一件済口証文差上置候儀を其方共ハ如何差心得候哉」)との発言などは、公式の済口証文どおりでない実態に気付き、非難を込めた口調のようである。中河原村平七の、名主唯右衛門は百姓たちに済口証文(奉行所へ提出した公式の方)を見せていない、あの済口証文では再論は避けられない、との発言も、実際には「内議定之事」だけが現地で通用していたという前提で理解され、それを公言しているのだから、やはり吉岡には露見しているのであろう。享和三年三月の裁決文の橋銭配分についての言及は、「畢竟相対之事故、以来共勝手次第」とあるが(資二社経134)、橋銭配分について具体的な記載があるのは寛政時の「内議定之事」だけであり、その三分の一を中河原村へ与えるという規定を容認しているのであろう。
 この後は渡船をめぐる争論は両村間にはなかったようである。前述のように、多摩川の流れが変われば、中河原村の主張根拠も失われ、土橋掛権利も保持されたかは疑問である。天保六年の図6―33では、土橋と見られるものは関戸村河原とおぼしき所に一か所あるだけである。