加組の負担

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具体的な負担が分かる史料としては、慶応元年(一八六五)十二月の一ノ宮渡船の馬船を打替の入用を加組村々が割りあった時の史料が残っているのでこれを見てみよう。この時の船の新造に、材料費や大工賃銭などで総計金五三両一分三朱、銀六一一匁三分九厘三毛、銭一二貫七九文が掛かった。これを永に換算すると、六五貫一〇九文九分五厘五毛となった。これを加組の高七二七六石二斗四升九合で割ると、一石当たり、永八文九分四厘八毛となる。これを村高に掛けて、村ごとの負担永高を出し、また金と銭に換算しなおして、実際には金と銭を集めるのである。その負担割合は表6―32のとおりである。
表6―32 一ノ宮渡船加組
寛政3年加組 慶応1年負担
村高 永高 領別石高
川辺領 上落川村 195.000 1655.75 2018.525
下落川村 199.000 1691.55
百草村 300.000 2695.00
乞田村
貝取村 99.000 796.55
上小山田村
下小山田村
連光寺村 208.600 1866.97
関戸村 500.000 4415.00
上和田村 267.883 2397.57
中和田村 99.103 987.97
寺方村 62.939 561.30
柚木領 落合村 5257.744
大塚村
中野村
越野村
上柚水村
下柚木村
堀之内村
中山付
別所村
大沢村
松木村
鑓水村
(注)<史>富澤政宏家伝来文書2145、資二社経17より作成。

 ここでは、具体的な村は川辺領九か村しか書かれていない。この村高は負担高であって、当時の村高とは異なっている。この村高の合計は川辺領石高合計の二〇一八石五斗二升五合に比べて八七石不足している。これは富澤家に残った史料という性格のためかもしれない。それならばそれで、九か村単位で金銭をとりまとめていたことになろう。
 表6―32には寛政三年の加組二四村も示した(資二社経17による)。これらを地図におとすと、図6―34のようになる。しかし前述のように、一ノ宮村の訴状や引合の連光寺村名主の返答書には加組二七か村とあり、内実の内済である「内議定之事」には、柚木領一五か村・日野領一二か村・府中領五か村の合計三二か村として、数値に変動がある。ただ寛政三年の二四か村の場合は、一ノ宮村側に同意した村々で、すべてを網羅していない可能性がある。「内議定之事」には、「船橋入用之義者中河原村より茂無相違差出シ候事御座候得共、右之趣ニ而一橋自分ニ而掛立之内ハ橋入用銭者差出不申、船打替之節者高割出銭無相違一ノ宮村江差出シ可申事」とあるので、二七か村の内に数えられているかどうかは別として、現実には中河原村も加組としての負担をすることになっている。

図6―34 加組村々(加組の内24ケ村、本文参照)