村内・組合と渡守

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村と村との利害関係には村や組合は一つにまとまりやすい。先の一ノ宮村と中河原村と渡船権利をめぐる拮抗では、村と村というよりは、加組(訴訟側+引合)と一村という力関係が見えている。しかし村や組合の中でも、渡船をめぐってさまざまな問題が持ち上がっている。
 寛政八年(一七九六)五月の一ノ宮村の渡守二名が名主とともに連光寺村の富澤忠右衛門と源兵衛へ申し入れた詫証文によると、去冬玉川橋が欠け、例年より大分欠けたので、加組村々は不勝手した。その上近年は川満水の時に人馬が大分つかえて難儀しているので、加組村々から渡船場舟人とも取り替えて欲しい旨の要求があった。それで連光寺村の両人に頼み、加組村々へ「向後は川満水の時は一人一疋たりとも舟渡しをする。もし滞ったなら、舟場へ出て、舟人庄次郎に申し、きっと渡させる」と、取り持ちを頼んでいる(〈史〉富澤政宏家伝来文書777)。
 文化三年(一八〇六)二月には一ノ宮村内で、渡守の清吉が名主ら村役人を相手どって訴訟が起きた。一ノ宮村は三給で三名の名主がいた。旗本桑嶋氏領の名主重次郎、曽我氏領の名主織右衛門、中山氏領の名主宇兵衛である。その訴状の内容は、以下のとおりである。①当村前の渡舟場は、府中宿より相州津久井・矢倉沢関所、東海道大磯宿大山への通りであり、津久井より本丸への御上鮎の御継立御用も往古に仰せ付けられ、相州筋へ御鷹匠様方や諸役人の通行御用向きも差支えなく渡船つかまつり、冬には土橋をかけ、往来継ぎ立てを行ってきた。②寛政三年中河原村より出入りとなり、曲淵甲斐守(勘定奉行)へ出訴、吟味中に内済となった。その節曽我領名主織右衛門と私が罷出て、止宿飯料など一五両あまりかかり、私方で負担した。③享和二年七月中河原村から再論に及び、中山領年寄八左衛門と私が罷出て、翌三年裁許となったが、出入り中の諸雑用は私方ですべて賄った。三五両余りかかり、家質・所持田畑質地に入れたが、出精して追々請け戻した。その証文は私方に所持している。④相州大山石尊参詣の旅人は年々六月二十七日より七月十六日まで多く通行するので、村役人が加印した質地金を返済するまで、立ち会い船賃勘定を改めることに対談をした。すなわち去る戌年(享和二年)よりこの日限の間、村役人諸入用と一人に付一〇〇文の積もりで手間代を差し引き、残金は私方に受け取り、借金を返済して来た。⑤しかるところ、去る夏の船賃は残らず村役人が取り上げ、どれほどあるのか立ち会い勘定をしてくれない。戌年(享和二年)の出入りの借金は、関戸村林蔵からの二両一分は払い、その他金子およそ一〇両ほどはあると思うけれど、存じ寄りがあるからとて私方ヘ一向に渡してくれない。⑥四年前の亥(享和三年)五月中、江戸宿飯料残金に差支え、年寄八左衛門が加印して、関戸村百姓平左衛門より金子五両借用したことは、三給村役人一同承知している筈である。⑦愚昧の私とみかすめ、一同馴れ合い取合ってくれないので、金子を渡してくれる様に命じてほしい。以上が訴状の内容である(〈史〉富澤政宏家伝来文書2145―1)。
 訴えられた三給の村役人たちの返答は次の通りである。①二度にわたる出入の入用については、この出入以前のおよそ二〇年前に、村中相談の上、渡船場の臨時入用のために、船賃の内から積銭することと相談が決まり、毎年六月二十七日より七月十六日までは相州大山石尊参詣の者が多分に通行するので、この日限の内通行の多い二日分の船賃を取り立て、村方積銭とし、その他は平生渡守に助成として遣わした。②訴訟人清吉はひさしく渡守を勤め、年々助成になったので、出入中の入用を引請けると相談した上で、それまでの積金六両二分余りを村方から差し出し、そのほかは清吉が引き受け、同人の田畑を質地に入れ金子を才覚し、費用を賄ったが、年々の助成により田畑を請け戻し、残った負債は、関戸村林蔵からの二両一分、同村平左衛門からの金五両であった。③去年は石尊参詣の旅人通行の節、五日の間船賃を村方に取り立て、その内三日分で林蔵方の借金二両一分は返済が済み、残り二日分の船賃は金二両二分五〇〇文あったが、その内金二分は清吉が借用したいと言うので遣わし、二両五〇〇文は村方に積み置いた。④清吉はこの二両五〇〇文も渡せと言い、村方積金であると申しても承知せず、平左衛門方借金があるので是非渡して呉れと言うので、この借金は、年寄八左衛門加印で借用したものであるから、村方で引き受け、来年の参詣通行がある迄に返済すると申し聞かせたが、承知しない。金一〇両程も村役人が持っているというが、金二両五〇〇文以外にはない。⑤いったい清吉は身分不相応な我儘者で、勤方も良くなく、寛政五年に渡守を取り放したが、たって詫びるので一札を取って勤めさせたが、また不勤をしたので文化元年(一八〇四)に加組村々から清吉不勤につき加組から離れたいと申し断られた。そのため扱人を頼み、一札を入れて以来不勤はしないと約定した。しかしなお我儘なので、村中相談して、加組村々にも掛合の上、渡守を取り放そうと相談していた所だった。⑥このことを清吉が聞き付け、先手をうって三給村役人を訴えたもので、不埒者であるから、関戸村平左衛門の借金は村方が引き受けるから、渡守の取り放しを容認して欲しい。以上が返答書の内容である。
 この争論の結果、結局渡守清吉の留任となり、従来の方式(二日分の渡賃の村方積金)が確認され、帳面には渡守も連印すること、清吉の借財は清吉方で引き受けることに内済した。
 これらの経緯から、大山参りの旅人の通行はかなり多く、その船賃も多い日には日に一両以上に達したことが窺われる。確実な現金収入は渡守に、家業としての意識を発生させたのであろう。一方村名主や加組は通行という公共的な要素からの逸脱に対して不満をつのらせている。過怠・不勤と非難される情況は、寛政ごろから何度も現われていたらしく、文政二年(一八一九)にも渡守の勤方を取り締まるという行為が行われている。
 文政二年十一月の「差出申渡船取締一札之事」(〈史〉富澤政宏家伝来文書987)とある文書には、①当渡船は組合村々から舟代金を差出し、舟を作り、夏秋出穀受取り、船頭家業をしてきた。出水の節或は夜分通行急御用向きの節も差支えなきため、取締書面差出すべきことになり、即ちここに差出す。②冬春の間は土橋丈夫に掛け、通行差支えないようにする。③夏秋の間は舟を以て渡船する。拙者(清吉)渡船場勤め方は、昼夜に限らず河原表におり、一人一疋たりとも何時でも舟を出し、いささかも懈怠しない。④小舟打立は、例年六月二十七日、七月一日両日の往来人より受け取る船賃銭を村役人が立ち会い預り置き、積金してそれから小船打ち立ての時に使う。もっとも積金では不足の時は、不足分を組合村々から割合出金し、過分の時は、積金にさし加え、積み立てしておく。⑤積金は年々船頭立合の上取調べ、帳面を作る。小船(の経費)も明細に帳面を仕立てる、とある。