多摩川およびその支流の秋川では鮎猟が行われていた。先にかかげた、延宝九年(一六八一)の青柳村と関戸村との境争論にみられた「漁猟」もおそらく鮎猟であったろう。そこでは、青柳村と関戸村が漁猟権を持ち、青柳村人が居留している四ツ谷村には漁猟権は認められなかった。
しかしこれに先立つ延宝六年八月十二日の済口証文によると、これまで一ノ宮が鮎猟を独占していた多摩川の川面で、四ツ谷・本宿・中河原村が新規に「鮎殺生」を願い出て、結局許されて入会になったことが分かる。この時同時に、河原を開発した場合はそれぞれの村分とするが、川瀬が変わるなどして流出した場合はまた入会に戻す、ことなどが決められている。これは鮎猟入会という要件にもとづく措置だったのであろう(資二社経162)。
この二つの出入りからすると、四ツ谷村が漁猟できなかったのは、青柳・関戸村の漁業権のある川面であって、それより上流では漁猟できたことになる。川面はいくつかの漁場に設定され、それぞれの漁猟権があった。
また延宝六年の出入りでは、一ノ宮村は一年に五度ずつ、地頭中山氏へ鮎を上納していたことが分かる。関戸村は江戸城へ御菜鮎として献上していた(資二社経131)。
御菜鮎はのちに「上ケ鮎」とも称されるが、おそくとも延宝六年には確認され、享保七年(一七二二)に一旦停止されたが、延享元年(一七四四)に再開されたことが知られている。その漁猟方法は鵜猟であった。将軍は多摩川の瀬田村で御川狩御成をすることがあったが、その際には、日野宿・中河原・下川原・柴崎・四ツ谷・石田・山田・伊奈・五日市村などから鵜と鵜先網、鵜匠や人足などが集められている。鵜猟以外の漁法は禁じられ、天保九年には、多摩川上川と秋川の村々は、川井村・小中野村より下流での新規漁法・年来渡世の漁師以外の者の漁業禁止を願い出て、成功している(以上、宮田満「近世玉川の漁業生産に伴う役負担と漁場利用関係」『関東近世史研究』二六)。
享保十二年にも、伊奈半左衛門手代が府中本町の名主方に来て、多摩川通りの村々の名主・組頭を呼び集め、多摩川での釣の禁止を命じている(資二社経163)。また文化九年(一八一二)には、是政村の者が連光寺村内の大栗川で魚を採ったが、この魚は連光寺村内の下川原の漁師の鵜の餌にしているものであったため、中河原村・四ツ谷村が扱人に入り、連光寺村に詫証文を入れている(資二社経159)。
しかし多摩川沿いの一ノ宮・関戸・連光寺村などでどれだけの狩猟を行っていたかの詳細は不明である。先に見た渡船をめぐる争論では、御用鮎の運送中に多摩川に流してしまったことが、船と土橋の維持のための加組の起立につながったと述べられていたが、これは津久井の道志川でとれた鮎の輸送である。