江戸時代、八王子を中心とした多摩地域(厳密には武州入間郡や相州高座郡をも含めた地域)には「千人同心」と呼ばれる家々が存在した。「千人頭」と呼ばれる旗本が一〇組あり、一組一〇〇人ずつの同心を従え、合計で一〇〇〇人の同心(寛政の改革以降は九〇〇人に縮小)を統率していた。千本槍衆、長柄同心などとも呼ばれていたが、千人頭および同心の七割以上が八王子千人町の組屋敷をはじめとする現在の八王子市域に集住していたために、しばしば「八王子千人同心」とも称される。
もともと千人頭は甲斐武田氏の家臣団として主要道の警備を担当する九人の道筋奉行(小人頭)という役を勤めており、彼ら九人のもとにおよそ三〇〇人程の小人(同心)を従えていたといわれている。
天正十年(一五八二)の武田氏の滅亡とともに甲斐は徳川氏の領地となり、代官頭・大久保長安の支配の下で、小人頭および同心は徳川氏の家臣団に組み込まれ、従来通り、道筋の警備を任されている。天正十八年に後北条氏が滅び、徳川家康が関東に移封されると、小人頭および同心は小田原城の支城の一つである八王子城の城下、いまの元八王子に移された。この際、北条氏の浪人などを同心に加え、同心の数を五〇〇人としている。頭も一人増員され、計一〇人となった。これは戦乱後間もない八王子城下の治安の維持に八王子のことを詳しく知っている者を当てるのが目的と見られているが、浪人を召し抱えることによって、「失業者」を減らし、社会不安を防止するという意図も十分に考えられる。いずれにしても八王子の早期復興をめざした政策であろう。文禄二年(一五九三)には頭の一〇人と同心一〇〇人ほどが、現在の八王子市千人町に拝領屋敷を与えられ、元八王子から移り住んだ。さらに慶長五年(一六〇〇)には浪人・有力農民など五〇〇人を召し抱え、合計で一〇〇〇人の同心が一〇人の頭に指揮される体制が整備され、文字どおり八王子千人同心が成立した。