役職と格式

976 ~ 978
千人頭は二〇〇~五〇〇石(二〇〇俵の蔵米取が二名)の旗本で、千人町の拝領屋敷に住み、月番で事務を処理していた。千人町はもともと同心が五〇〇人体制となり、元八王子から現・千人町に移り住んだとき(文禄二年)に「五百人町」と呼ばれ始めたと考えられるが、慶安二年(一六四九)の本立寺(八王子市)の所蔵する過去帳に「五百人町」の名が見えることから、同心が一〇〇〇人体制になってからもしばらくは「五百人町」という名称が残っていたことがわかる(樋口豊治『江戸時代の八王子宿』)。地名としては千人同心を偲ぶ唯一のものである。千人頭の格式は江戸時代当初は、江戸城における詰席が「躑躅(つつじ)の間詰」だったのだが、千人頭の一人石坂勘兵衛正俊が明暦三年(一六五七)に、入ってはいけない別の詰席に誤って入ってしまい、「御納戸前廊下詰」に格下げされてしまった。それ以来江戸時代を通じて千人頭は「旧席復帰」の運動を展開することになる。北海道開拓や地誌探索といった事業に積極的に取り組んだのも、この旧席復帰運動の一環とみられている。
 寛政三年(一七九一)には「千人同心取締方肝煎」という役職が設けられ、千人頭のうち三名が任命された。役宅は四谷の勝興寺西側にあった。江戸に肝煎を置くことで、多摩地方と江戸との事務処理や情報伝達を円滑にするのが目的と思われる。
 平同心は平均一二俵一人扶持、最低でも一〇俵一人扶持であった。二〇俵を越える同心はわずかであったことを考えると、同心全体としては、俸禄高に大きな格差はなかったといえるだろう。平時にはおよそ一〇年に一度の日光火の番以外は公務といえるものはなく、村方においては人別帳・五人組帳にも記載され、農民としての生活を送っていたようである。
 旗本である千人頭が家禄を世襲していくのとは違って、同心は「御抱席」と呼ばれ、一代限りの身分だった。したがって同心という地位(同心株)は子から孫へと自動的に継がれるものではなく、「番代(ばんがわり)」と称して手続き上は新規に採用されることになっていた。また同心株は事実上他人への譲渡も認められており、株の売買も盛んに行われていた。このため千人同心の成立当初から明治維新まで同心を勤め続けた家はごく限られた数になる。同心の人事異動の際の推薦文には、特記事項として「天正以来の家筋」という表現はもちろん「大猷院(家光)様御代以来」「厳有院(家綱)様御代以来」という文言が書かれているが、これは家光・家綱の時代から代々続く同心の家でさえ、かなり少なくなっていることを思わせるのである。
 文政二年(一八一九)の時点での具体的な数字をあげると、天正以来の組頭・同心の家筋はそれぞれ二三家・六六家で合計八九家が残っている。慶長以来の家筋はそれぞれ九家、四六家で合計五五家となっている(千人頭河野四郎左衛門の調査)。つまり軍団が一〇〇〇人となった慶長以来の家はわずか一四四家にすぎない。
 同心の役職としては、「組頭」「世話役」があった。寛政の改革以降、俸禄高が三〇俵に満たない組頭には在職中に限り三〇俵に足りない分が支給されていたが、世話役には手当が付かなかったようである。『桑都日記』によれば世話役は寛政五年に設けられた役職で、組頭を補佐するのが職務とされている。組頭に欠員が生じたときには世話役の中から組頭を選ぶことにもなっていた。また時代が下るにつれて「…並」「…見習」「…次席」という補助的な呼称も登場し、いわゆる「役付き」同心が多くなっている。
 この他、長年勤務した者、著しい業績のあった者に対しては「御譜代」席、すなわち家督相続や隠居を認め、本人はもとより家族まで村方の人別から除き、世襲の同心家として待遇したり、また家柄の古い者に対しては「旧家一代組頭」という名誉称号も与えられた。通常は組頭を辞めると平同心になるのだが、数代にわたって組頭を勤めたり、功績を認められた家に対しては「無役」という、これも一種の称号を与えた。この場合、「無役」とは役が無いという否定的な意味ではなく、「単なる平同心ではない」という肯定的な意味を持っていることは言うまでもない。
 役職の創設については、(一)同心側からの要望に応えたものか、あるいは(二)株の売買があまりに多いために、同心の子弟を「同心見習」「組頭見習」などに任命することによって同心が親から子へと番代りするルートを既成事実化し、株の売買を抑制しようとする幕府の政策のいずれであるかは明らかではない。今後の研究が期待される。
 幕末には同心たちにも臨時の動員がなされた。天狗党への備えとして甲府出兵に動員され、また慶応二年(一八六六)に千人隊と改称されてからは、洋式軍制を導入し、長州遠征、開港まもない横浜の警備などにも動員された。慶応四年三月に八王子が官軍に占領され、その後まもなく幕府が瓦解すると、千人同心には、朝臣になるか、帰農するかの選択肢が与えられたが、八二〇名を越える同心は帰農する道を選んだ。
 全国的に廃刀令が出されるのは明治九年(一八七六)のことだが、甲府鎮撫府(官軍)は八王子占領後の慶応四年六月には既に帰農を選んだ同心の帯刀を禁じている。近世の身分制社会の終わりを告げる先駆けとして象徴的な事件といえよう。
(八王子千人同心一般については、八王子市教育委員会が発行した『八王子千人同心史』他、多くの業績があり、くわしく紹介されているので、そちらも是非参照してほしい)。