伊野家にみる村の生活

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伊野家は文政八年(一八二五)五月、倉之助の代に西村源七から三〇両で同心株を購入し、一〇俵一人扶持の千人同心となっている(資二社経104)。株の譲渡証文には「近年病身に相成候ニ付」同心株を譲渡すると書かれている。これより二七年前の寛政十年(一七九八)二月の『千人頭月番日記』には世話役である西村源七が病気である旨が記されている。寛政十年と文政八年の「西村源七」が同一人物かどうか、今のところ明確ではないが、同一人物とすると、あるいは病弱な人だったのかもしれない。
 株売買の一か月前には倉之助の身元を保証する証文(資二社経103)が寺方村の名主善九郎によって提出されているので、株の譲渡先がこの頃までには内定していたことがわかる。また資料としては発見されていないが、倉之助が千人同心になったことに伴い、倉之助が任務で動員されているときに、倉之助に代わって農作業を引き受ける「地方引請人」を誰にしたのかという届けも提出しているはずである。
 倉之助は天保三年(一八三二)正月に名字を「井野」から「伊野」に改める旨の届けを提出している。このときの届けには既に肩書きが「世話役」となっている。また「世話役」任命の辞令には宛て名が「井野倉之助」とあるので、世話役就任が名字を改める前であったことがわかる。日付は「十二月」としか記されていないので、任命の年まで特定できないが、西村源七が世話役だったことから、それを引き継ぐかたちで株購入後最初の十二月である文政八年の任命かとも思われる。
 次に村における伊野家を見てみよう。明治二年(一八六九)年の「武蔵国多摩郡寺方村畑方名寄帳」(伊野弘世家伝来文書17―1)という資料を見ると、銀蔵の持高が一石六斗余、倉之助の持高が一石七斗余である。この資料は「畑方」についてだけであり、同時期の「田方」の資料は残っていない。しかし伊野家に残されている譲渡証文には譲渡された財産がすべて記載されている。銀蔵の場合、田方の取米一石五斗余を加えても持高は三石余であった。これらの土地は慶応元年(一八六五)に倉之助から譲り受けたものである(伊野弘世家伝来文書764~766)。倉之助が財産を分与する前の伊野家の持高は一〇石を越えると思われるが、この数字はそれほど抜きん出たものとはいえない(ただし持高のほかに四か所の山林を所有しており、生活に余裕があったであろうことは十分考えられる)。
 倉之助は文久三年(一八六三)七月に次男銀蔵(嘉永元年十一月二日生まれで、当時かぞえで一六歳)を分家させ、譲り渡した財産の証文(財産目録)の末尾に「外ニ八王子御組相譲り」と記し、銀蔵に番代りさせている。もっとも分家といってもこの場合は書類の上だけで、年齢的な面、家業の質屋の経営などを考慮すると、実際には親との同居は続けていたのではないだろうか(ただし財産目録の中には屋敷地、建家が含まれている)。
 ここで倉之助の長男幾太郎と次男銀蔵に対する財産分与についても少し触れておこう。幾太郎は嘉永四年(一八五一)現在で二〇歳であり、同心の見習い勤めをしている(『千人頭月番日記(二)』一五〇ページ)。嘉永四年から逆算すると、天保三年(一八三二)生まれとなり、銀蔵とは一六歳違いということになる。銀蔵が生まれた嘉永年間には幾太郎はすでに訴訟の代理人として出府したり、質屋経営についての役所からの「御糺」に返答書を差し出したりと、現代でいうところの「法律行為」を行なっている。訴訟という「御用向御勤」の代理を頼まれることからして、幾太郎の実直で弁舌のたつ聡明な人物像が浮かんでくる。
 幾太郎は銀蔵が分家をした一年半後の元治二年(一八六五)二月に倉之助から田畑・山林を譲渡されている。しかしその三か月前の元治元年十一月、幾太郎は「不埒なる儀(不埒成義)」があったということで倉之助から譲渡された田畑・山林を「改直」されている。つまり一度譲渡された財産を見直されているのである。また今後ふたたび(たとえ風聞といえども)不埒なことがあったときには両親(倉之助夫婦)の葬式、その他「余儀一切」を銀蔵に執り行わせるということを記し、幾太郎にも承諾の証文を入れさせている。「不埒」の内容については後に検討することとして、ここで分かることは、幾太郎が元治元年十一月の時点で、既に倉之助から田畑の譲渡をされていたということである。おそらく銀蔵が分家をした文久三年に同時に幾太郎にも譲渡されたのではないだろうか。そのときの譲渡証文は残っていないが、それは改め直しの際に倉之助に返却され、破棄されたからであろう。また伊野弘世家に残っている元治二年二月の幾太郎への譲渡証文には文面に推敲のあとが見られ、押印もされておらず、文字も乱雑であることから、下書きと思われるが、正本は証文を受け取った幾太郎家の子孫宅に現存しているかもしれない(伊野弘世家は銀蔵家の流れである)。なお銀蔵の「日光出勤日記」(資二社経107)によると、元治二年二月に倉之助は大病をしたようで、銀蔵も父親が病気だという理由で、任期前に日光から寺方村へ帰ってきた。幾太郎への財産の譲渡も倉之助の病気がきっかけであろう。

図6―35 日光出勤日記

 銀蔵は慶応元年(一八六五)六月には、倉之助からさらに田畑を譲り受けている。このときに譲渡された田畑には、文久三年のときの田畑を数筆含んでいることが証文から確認される。つまり倉之助は以前銀蔵に譲渡した土地をふたたび銀蔵に譲渡しているのである。おそらく幾太郎の相続財産が改め直された際に、銀蔵への分与分も同時に見直されたことによると思われる。一度譲渡した土地を再び取り上げて財産の配分を見直すことができることからして、田畑の管理権など土地に関する責任は依然として倉之助が握っていたと考えられる。
 元治二年に幾太郎に譲渡された田畑は、銀蔵に譲渡されたもののほぼ二倍、つまり持高もおよそ二倍の六石ほどにもなろうか。倉之助が手元に残した畑方分の持高一石七斗を除けば、長男対次男の財産分与の割合がおよそ二対一なので、やはり長男が優先されていると納得しがちかもしれない。しかし銀蔵には千人同心株が譲渡されていることを忘れてはならない。前述のように同心株は文政八年に「養育料」という名目で三〇両を支払い、西村源七から譲り受けたものである。それゆえ銀蔵が父倉之助から同心株を譲り受けたことは、三〇両の価値を持つ財産を譲り受けたということである。当時の利子率を一〇パーセントとすると、三〇両という金額を貸借した場合、年間三両の利子が生まれることになる。米の値段を一石=一両とすると、三両ではちょうど三石となり、幾太郎と銀蔵の持高の差に等しくなる。あるいは銀蔵の同心としての高は一〇俵一人扶持であるが、この一〇俵を石に換算すると四石弱となる。したがって銀蔵は株を売っても売らなくても、年に三両ほどの収入があることを意味する(利子率も米の相場も変動しているので、受け取る金額は毎年同じではない)。つまり倉之助の意思としては、幾太郎と銀蔵という二人の息子に対して財産をほぼ等分に与えたい、というものだったのであろう。そして田畑を細分化することはなるべく避けるために幾太郎には田畑を中心に、銀蔵には同心株や質屋稼ぎといった「サービス業」を中心にそれぞれ分け与えたのではないだろうか(ただしこの場合幾太郎の山林からの収益と銀蔵の同心としての「一人扶持」という手当は計算から除外している)。
 さて先ほど述べたように幾太郎の「不埒」の内容について検討してみよう。資料が少ないので推量の域を出ないのだが、ここでは質屋経営との関係でみていくことにする。
 元治元年(一八六四)七月、つまり幾太郎に「不埒」なことがあって財産証文が改め直される四か月前のことであるが、質屋としての伊野家は、火付盗賊改から質物の出所についての取り調べを受けている(資二社経108)。二年前の文久二年に質入れされた衣類など三点が「不正」の品、つまり盗品ではないかという疑いによってである。これらの質物については証人もなく、押印もさせずに、本人の持ち物であるという言葉だけを信用して質にとっている。五人組帳には、質屋が質物をとるときには質入れ人に証人を立てさせ、押印させる旨が規定されている場合が多いが、この点では明らかに伊野家側に落度があったことになる。ただし、いちいち規定通りの手続きをしていたのでは非常に煩わしいので、実際の取り引きでは、よほど高額の品物でない限り、こうした手続き(特に証人を立てる)を踏んでいたとは思われない。行政側も普段そこまでチェックすることは不可能であるから、通常は上記の五人組の規定はほとんど守られていなかったといえる。そのため盗品の質入れが発覚したなど、何かトラブルがあったときには、質屋側の運が悪かったとしか言いようがないのである。
 しかし行政側(火付盗賊改)の立場からすれば、事件が発覚した以上、運が悪いだけで済ますこともできず、処分の申し渡しの後、事件の関係者にも何らかの形での反省を要求したにちがいない。そしてこの時の伊野家側の責任者は、書面上、銀蔵であった。資料の中では「銀蔵煩ニ付」、母親の「くわ」が取り調べに答えている。もっとも銀蔵はこの時日光勤番(元治元年五月から同二年二月まで)で寺方村にはいなかったので、病気というのも口実である。こうしたことから質屋経営の実質的な責任者は、嘉永年間以来引き続き幾太郎であったと考えるのが自然であろう。それゆえ倉之助は幾太郎を「不埒」な行為があったということで前述のような処分をせざるを得なかったのである。もちろん倉之助の心の内は幾太郎を責めるものではなかったろうし、幾太郎本人にもそのように申し含めていたはずである。
 このような推論をたてるのも前例があるからである。文久三年五月に倉之助自身が全く同じような事件で火付盗賊改方から取り調べを受けている。つまり証人も押印もなく、衣類などを質物として預かったのである。千人同心が質屋を営んではいけない、という法令はないが、寛政改革の際には、幕府から「商人同様之体ニ安く身分を忘れ」るような行為を慎む旨の達し書が出されているので、少なくとも奨励されることではなかったであろう。そこで倉之助はこの事件の責任をとるために、千人同心を番代りし、質屋の名義も銀蔵にして、一応第一線から身を引くという体裁をとったと思われる。それを形にしたのが、先に挙げた文久三年七月の日付がある銀蔵に分家をさせた証文である。
 伊野家の質屋経営についてはいつごろからなのか、はっきりしたことは不明である。いずれにしても近世後期の村において、農業にいそしみ、質屋を経営し、千人同心まで勤めるという多様な生き方をしていたことが、伊野家の資料から見て取れる。少なくとも朝から晩まで農作業に縛られていたという従来の農民像は浮かんでこない。ちなみに火付盗賊改からの取り調べに対して、文久三年のときも元治元年のときも、倉之助、銀蔵ともに「煩ニ付」という理由で表にでていない。代わりに彼らの妻であり、毋である「くわ」が応対している。現存の資料からは詳しい事情まで窺い知ることはできないが、「くわ」が役所からの面倒な取り調べをてきぱきとこなす気丈な女性としてイメージされて仕方がない。