小山家にみる村の生活

985 ~ 990
落合村の小山家は、天明年間(一七八一~一七八八)に千人同心となったといわれているが、株の譲渡証文などが残っていないので、はっきりとしたことは分かっていない。どのようないきさつで、誰からいくらで株を購入したのかということも、いまのところ一切分かっていない。千人同心としての初代は、金五郎(後に源右衛門)で、一五歳で組入りしたといわれている。父の兵右衛門に同心株を購入してもらったのであろうか。兵右衛門自身が同心になってもいい年齢だったろうが、おそらく彼は名主などの村役人を勤めることが多かったために、惣領である金五郎を同心にしたと思われる。千人同心は「一人両名」、つまり同心と村役人を兼ねることを禁止されているからである。
 文化元年(一八〇四)の下落合村の宗門人別帳(小山晶家伝来文書「宗門人別御改帳」)を見ると、金五郎は三一歳であり、父兵右衛門の戸籍に入っている。彼には「まさ」と「嘉十郎」(のち源内)という二人の子供がいて、妻は「きの」といい、一つ年下である。金五郎の肩書きの部分には「八王子千人同心」と記載されている。
 千人同心は近世の中期頃、宗門人別帳への名字の記載について、村方と争論をしたことが何度かあったが、名字の記載はついに認められなかった。後に寛政七年(一七九五)になって、人別帳の肩書きに「八王子千人同心」と記載することで一応の決着がつけられたといういきさつがある。そのため金五郎の箇所にも「小山」とは書かれていないのである。
 小山家は千人頭の中では下窪田組(己組)に属していたが、嘉永四年(一八五一)七月に窪田鉄三郎が閉門になり、原組に割り入れられた。各組に割り入れられた旧下窪田組の同心は、後に再編成され、頭のいない「明組」と称した。八王子市教育委員会の発行した『千人頭月番日記(二)』をみると、窪田鉄三郎閉門の直後である嘉永四年の十一月二十一日、源右衛門の息子源内は「病気」という理由で同心の見習い勤めを辞している。「父源右衛門願之通」とあるので、このときの届けは源右衛門が提出したのであろう。源内がいつ同心見習になったのかについては記録が見つかっていないが、源右衛門がゆくゆくは源内に番代りさせようと考えていたことは間違いなかろう。従来は源右衛門の孫娘である「うし」(天保十年(一八三九)生まれ、明治になって「そよ」と改名)が、嘉永四年三月に婿(初造)をとるまでは、千人同心としての跡取りがいなかったと考えられていた。しかしそうではないらしいことが『月番日記』の記事から明らかになった。なお、『小山家文書(四)』(多摩市教育委員会)によると、小山源右衛門の没年月日が「嘉永四年十一月十七日」となっているので、源右衛門が息子源内の見習い辞退願いを提出したのは、それより前だったことになる。二十一日というのは正式に決定した日付であろう。
 次に農民としての小山家を見てみよう。文化九年(一八一二)の写しとされる享保十年(一七二五)の下落合村の「田方名寄帳」(田の面積・収穫高などを所有者ごとに記載した帳面)および「畑方名寄帳」によれば、小山家の田畑の持高は三石八斗余である。また文化十一年(一八一四)の「関東川々国役金割帳」(治水工事費用を関係地域に割り当てたときに、各村では誰がいくら払うかを記載した帳面。これら三点の資料はいずれも小山晶家伝来文書)では持高一石につき三二文二分四厘となっているが、小山家(兵右衛門)はこのとき一一九文の割り当てとなっている。つまり持高はおよそ三石七斗という計算になるので、名寄帳の記述にもほぼ合っている。村全体では三貫七五〇文の割当額を六八人で負担しているので、単純に割れば一人あたり平均五五文となる。小山家では平均の二倍強を上納していることになるので、役金の負担額から見れば上層農民の部類に入れられる。しかし一〇〇文以上負担している家も一三家あり、小山家も伊野家と同様に、農民としての規模が抜きん出ていたわけではない。
 小山家文書からは千人同心と村民の関係が浮き彫りになるような事件(小山晶家伝来文書「貝取村森田氏一件手控」)を紹介してみたい。

図6―36 貝取村森田氏一件手控

 その事件は文政三年(一八二〇)十月二十四日の夜に起きた。当時は貝取村にも千人同心がいたらしく、その貝取村の千人同心森田勘右衛門が同村の作右衛門という百姓に用があり、訪ねたという。史料を読み進むにつれて、訪問の目的は勘右衛門の家督相続についてであったことがわかる。そこへ乞田村の百姓栄蔵・太兵衛の両名がきて、勘右衛門に対して悪口・雑言をあびせ、勘右衛門も我慢がならず喧嘩になりそうになったが、その場は居合わせた人たちに止められておさまった。
 しかし勘右衛門はそのままに捨て置きがたく思い、八王子まで訴え出ることにした。このとき「番組合に無断で表沙汰にするのはいかがなものか。まず番組合で審理されるのが当然であろう」とクレームがつき、まず番組合内で事件の審理が行われた。この段階では、栄蔵たちは悪口・雑言の事実はないと言い張ったために、埒が明かず、結局事件は八王子千人町の月番所に持ち越された。森田勘右衛門の側としては、栄蔵たちが反省しているようならば、「酒狂」の上での出来事であるからということで穏便に済ませるつもりだったようで、内済(示談)の書面まで用意していた。
 月番所の審理は十月二十八日に行われた。勘右衛門は「千人同心は平素は村に住む者が多く、大勢の百姓に入り交じって生活している。しかし幕府の威光を笠にきることもなく、穏便に生活できるように心を砕いている。そこに付け込み、今回のように侮辱を加える者もある」という主張をしている。
 事件は鑓奉行を経て、勘定奉行石川主水正忠房の審理するところとなった。栄蔵たちは「日頃、百姓として接していたので千人同心とは知らなかった」などと言い訳をしたようである。しかし栄蔵たちが勘右衛門と口論をした際に「帯刀人など恐くない」という発言をしたという証言もあり、勘定奉行も「勘右衛門のことを千人同心とは知らなかった」という栄蔵たちの供述はウソであると判断したようだ。判決は栄蔵たちの行為を「不埒」なる事とし、十一月十九日に行われた評定所の評席では、両名に手鎖・宿預が申し付けられることになった。栄蔵たちもこの決定によって観念し、罪を認めて内済にしてくれるようにと頼んできた。そこで森田勘右衛門は栄蔵たちから詫び証文を取り、審理を取り下げることとし、事件は一件落着した。文政三年の十二月のことであった。
 この事件からわかることをいくつか挙げてみよう。まず審理の手続きである。百姓同士の訴訟であれば村役人が最初の審理機関となるが、千人同心が関係してくると、その同心の居住する番組合の中で審理されるということである。
 「番組合」とは寛政改革の一環としてもうけられたもので、「改正の達し書き」という規定の中で定められた条文を受けてつくられた。そこには「所属する千人頭に関係なく、近所の同心二、三〇人ほどずつで一つの番組合をつくり、なにか問題が起きたらまずそこで話し合う」旨が明記されている(『八王子千人同心史・資料編I』一〇〇ページ)が、この事件の経過をみると、番組合が同心同士の問題や勤務上の打ち合わせだけではなく、訴訟を受け付ける最初の窓口としても機能していたことが知られる。
 そしてこの段階で解決しないときには、八王子千人町の月番所(当番の千人頭の屋敷)が第二審機関として設けられていたことである。千人同心がかかわる裁判の手続きは、公式・非公式のルートを含めると百姓同士の場合とはかなり異なると言えるだろう。別の事件の例ではあるが『月番日記』には、「月番所での処分の申し渡しのときには、両刀および懐中のものをとりあげ、封をして世話役に預けることになっている」ということも書かれていて、裁判を進める上での細かい作法・慣習などもわかる。今後、番組合レベル、月番所レベルの審理記録などが発掘されることにより、千人同心の訴訟形態が明らかにされることに期待したい。
 第三審は、通常の百姓の訴訟と同じく勘定奉行によっておこなわれている。同心も百姓・町人も最終の審理機関としては、勘定奉行が担当していたことになる。
 次にこの資料は当時の同心たちの「雰囲気」のようなものを伝えてくれている。先に概要を紹介したが、月番所での勘右衛門の主張からは、村方における帯刀の禁止や宗門人別帳への名字記載の禁止など、幕府の千人同心政策に対するささやかな不満が感じられる。このことから名字一件など、一連の身分・地位に関する幕府の政策については、文政年間にいたってもなお同心の間に不満が残っているということを窺い知ることができる。同心と百姓の区別があまり明確でなくなってしまったがゆえに、かえって違いを強調したいという人間の心理であろうか。
 さらに想像力をたくましくすれば、この事件には千人同心株の売買が絡んでいることも考えられるのである。つまり勘右衛門が家督相続のことで作右衛門を訪問したときに起きた事件であることを考慮すると、勘右衛門は以前から同心株を手放すことを考えており(嘉永七年の時点では「森田」という千人同心は貝取村にいない)、その売る相手として作右衛門、栄蔵、太兵衛らとなんらかのトラブルがあったのではないか、ということである。
 話を分かりやすくするために、月番所でのやりとりをもう少し詳しく紹介しよう。月番所での審理のときに勘右衛門が「なぜ作右衛門方を訪れたか」と当番の千人頭に尋ねられたとき、勘右衛門は初め「身上向之儀」としか答えなかった。千人頭がさらに具体的な答えを促すと、勘右衛門はやっと家督相続について、と答えている。これは勘右衛門が「できれば訪問の理由は言いたくない」と考えていたことを示している。やましいところのない家督相続であれば、最初から家督相続と答えるであろう。
 この事件は作右衛門宅で起きたものなので、月番所では作右衛門にも事件の顛末を書面にして提出するよう求めたところ、作右衛門は「口上覚」として提出したものの、「印形之儀ハ何分ニ茂不相成」としてその覚書に押印しなかった。これは現代に置き換えれば、宣誓をしないで法廷で証言するようなものであろう。それゆえ勘右衛門が相談にきた家督相続の内容というのは、あまり公にしたくない性質のもの、つまりは同心株の売買ではなかったのかという推論がなされるのである。同心株の売買は公には認められていなかったので、裁きの場では事実をありのままに言いにくいだろうし、それは訴訟の相手方である栄蔵や太兵衛にしても同じである。ただしこれはあくまでも推論であって、真実はいまだに不明であることをお断りしておきたい。