これまで伊野家、小山家の文書を中心にして多摩市域の千人同心の生活を見てきた。もちろん、ここで取り上げることができたのは生活のごく一部分だけであって、実際にはさらに広範囲な活動があったことは言うまでもない。たとえば伊野家文書の中には膨大な俳諧の資料が残っているし、小山家では源内が医者をしていたこともあって医療関係の資料がある。これらを丹念に調査していけば、千人同心を含めた当時の庶民の生活を知る上で興味は尽きないだろう。
そうした課題は今後の研究成果を待つとして、ここでは取り上げることができた範囲に限ってまとめをしたい。まず千人同心としての伊野・小山両家は村方においては百姓として把握されていたが、農民としての規模はとびぬけて大きいわけではないということである。つまり同心株を売買できる層は割合としてかなりいたということであり、一〇〇〇株(寛政改革以降は九〇〇株)に限られた同心株に対する需要は大きかったであろうと考えられる。最低でも年に一〇俵一人扶持という手当がつき、「日光勤番」という公費の観光旅行があり、ちょっとした特権をともなう同心株は、たとえてみれば数が限定されたゴルフ会員券のような感覚で売買され、時には投機の対象にもなったと考えれば分かりやすいだろう。こうしたものに対する人間の欲望はいつの時代でも変わらないことがわかる。
次に当時の傾向として、農業以外の分野で生きる人々が増えてきたということである。ある百姓が同心になった場合には、その同心の耕作分を引き継ぐ「地方引請人」を出さなければならないということはすでに述べた。多摩地方には「千人同心」という農業以外の就職機会が存在したがために、本来であれば百姓の次・三男として「農」に従事すべき人口が別の職業分野に流れていることを示している。幕府は食糧確保の観点から農業人口を守るために、寛政改革以後、「旧里帰農令」をはじめとした法令によって都市に集まった商工業従事者を農村に戻して労働力を確保しようとしていることは周知の通りであるが、「地方引請人」の制度も労働力確保の一環としてとらえられる。
それは伊野家の質屋経営にしても同じである。質屋稼ぎは「農間余業」として副次的に扱われているが、大きい質屋になると質屋経営の方が本業のようになったところも少なくない。斉藤博『質屋史の研究』では南多摩地方の質屋についても扱っているが、質屋が増えるということは、農村の窮乏を意味するものではなく、農村における商工業の活性化の産物であったと述べられている。そして借金をするのも生活に困ってというよりは、借りた金を設備投資や商品の仕入れに充てている場合の方がはるかに多いという結果がでている。同書ではさらに、高を持っていない百姓が商業ばかりに精を出し、小作の仕事をしないので地主が困っているという事例や、金融機関としての質屋を始める場合に本業の農業には影響がないので許可してほしいという願書などが紹介されているが、これらの現象も農業から商工業への人口移動による農業労働力の不足のあらわれであり、また農業に影響しなければ兼業も認めるという幕府の政策ともみることができる。従来は幕府の公式文書に記載されている「持高」の多少によって貧富の判断をされがちだったが、農業以外の産業に従事する人が増えたことにより、農民としての持高がなくても別の職業をもち、豊かな生活をしていた可能性も指摘できる。明治以降、第一次産業の分野が機械化されることにより、その余剰人口が第二・第三次産業に移動することが可能になったが、近世の後期には既にその準備が整っていたのである。
小山家の資料から紹介した事件は、多摩地域に住む当時の人々の「身分制」に対する意識を考える上で貴重である。百姓と武士が口論をしたり、その結果として詫び証文で和解するという事件であるが、こうした事件が起きた背景を理解するためには、千人同心と一般農民の関係を再考する必要があるだろう。あまり「武士」、「農民」というイメージにこだわっていては、当時の生の生活が見えてこないような気がするのである。
栄蔵は、勘右衛門が他の百姓と変わらぬ生活をしていたので、千人同心とは知らなかったと言い訳しているが、そのような言い訳を考えつくのも、同心が法令にしたがって普段は百姓と同様の身なりをしていたことを裏付けている。そして服装などの外面的なものばかりではなく、彼らの意識の上でも百姓と同心といった存在は、「身分の壁」といった越えがたい、対立したものではなかったのではないだろうか。千人同心が夜中に百姓の家を訪問する事実だけをみても、普段の親しい付き合いを思わせるし、千人同心の婚姻の相手は百姓であることは珍しくないのである。
近世を通じて千人同心は、日光勤番や軍事教練などがルーティン化し、形骸化していく中で、幕府の軍隊としては無意味な存在となっていた。しかし同心たちが村に住み、その身分が株として売買されることによって、その村の社会構造や人々の意識に影響を与えたことは十分に考えられる(文化活動における同心たちのかかわりあいについては既にいくつかの研究成果がある)。財産としての同心株の売買や相続、そして村での同心と百姓のつきあいなど、わずかな事例ではあるが、庶民の生活の息吹が感じられるのではないだろうか。