瞽女・座頭

993 ~ 995
江戸時代の盲人は先天的なものは少なく、医学が未発達で衛生状況もよくなかったため、幼児期の眼炎・天然痘・はしか・トラホームなどの病気や栄養不良によって、視力障害をおこす者が多かった。江戸時代の盲人数を推定することはなかなか難しく、近世の盲人人口の比率を〇・二五パーセント以上と推定し、この時代の人口を三〇〇〇万人として、控え目にみても約七万五〇〇〇人以上の盲人が存在したと考えられている(加藤康昭『日本盲人社会史研究』。以下、瞽女・座頭に関しては本書によるところが多い)。
 自力で生活ができなくなった障害者は家族や親類などの援助を受けたが、彼らを介助・扶養することができる余裕がある農民は少なく、しかたなく援助する場合が多かった。障害者にとっても農業の手伝いもできずに長期間にわたり厄介者としての生活を続けることは苦痛であった。そこで何らかの自立した生活ができる可能性があれば、家族の扶助を受けずに生きる道を求め、親も自分がいなくなった時のことを考え、自活の道を一日も早く見出そうと努力した。特に近世初期には小農家族化が進行する過程で、扶養能力が縮小し盲人が家族から放出されていく傾向にあった。盲人が仕事を捜そうとする場合はおのずから制約があり、座頭・瞽女や鍼治・按摩などになる以外はほとんど道がなかった。男性の盲人には当道仲間と呼ばれる全国的な組織があった。当道には検校、別当、勾当、座当の四官があった。四官は官位の商品化にともないさらに一六階七三刻に細かく別れていた。官位を得るには、芸能の技量とは関係なく、一定の官金(免許料)を納める必要があった。仲間入りしてから一人前の座頭となるには一二両の官金の上納が必要であった。この他にもさまざまな名目の出金があり経済的負担は重く、家族の援助などによって官金を工面できない盲人は遠くまで廻村して援助を求めたのである。
 瞽女になる場合は師匠(親方)に弟子入りした。師匠には忠実に勤めねばならなかったばかりでなく、瞽女仲間には仲間内の秩序の維持を図るため、入門後の年数に基づく階層秩序があり、若くても修業年数を上回る姉弟子の命令には服従しなければならなかった。入浴の順番やあらゆる機会の席次も、修業年数によって決められていたのである。瞽女の修業は厳しく、芸を売るという稼業であることから、日常生活も言葉づかいや礼儀作法などに至るまでしつけられた。特に師匠に弟子入りした者は、唄と三味線を厳しく身につけさせられた。客の希望に応じるためには、独特な節回しの段物・口説・常磐津・清元・端歌・長唄・民謡・流行歌などをできるだけ多く会得しなければならなかったのである。そのためには精進と情熱が必要であり、稽古の苦しさに堪えかねて脱落する者も多かった。なかには優れた音声や抜群な記憶力によって多くの唄を覚え人気を博する者もあった。また、瞽女仲間の規則は厳しく、江戸時代には結婚することは許されず、男子と関係を持っただけでも「年落し」といって、年序身分を引き下げられた。規則を破り仲間から外された者は「外れ瞽女」とか「離れ瞽女」と呼ばれ、仲間支配内での廻村が許されなくなる場合もあった。
 瞽女は将軍・大名に仕え、箏・三弦を教授するなどして定住する者もあったが、多くは仲間と共に門付けをしながら村々をめぐり歩くため、一年の多くを旅で過ごすことになる。娯楽らしいものにも乏しかった農民は、毎年のようにやってくる瞽女を親しみを込めて「ゴゼサ」「ゴゼンボ」と呼んで温かく迎えたのであった。テレビもラジオもない時代のため、宿泊先には歌謡を聞きに付近から人々が集まり、夜の更けるまで瞽女の唄を聞いて楽しんだのであった。瞽女も農民の好みに絶えず心をくだき、唄を通じて心のふれあいが生まれた。農民にとっては、瞽女の唄ばかりではなく旅の話を聞くことも楽しみであった。廻村した地域に関するたわいない話であっても、情報の少ない農民にとっては興味深かった。また、瞽女が人々の信仰の対象ともなっていたことも注目される。瞽女が貧者に善根を施して利益を与えることに加え、子育て、蚕の孵化(ふか)、稲・麦の発芽をうながす霊力や死者の霊を慰め供養する力などを有する聖なる来訪者として意識されていたためである(鈴木昭英『瞽女』)。そのため彼女らに対し村入用で宿を提供し、手引人足が次村まで送り届けるというように、村全体で盲人を受け入れる体制が整えられていた。