年月日 | 人数 | 出銭額 | 備考 |
寛延2年2月5日 | 瞽女3人 | 6文 | |
2月12日 | 瞽女3人 | 6文 | |
3月16日 | 日野の瞽女5人 | 10文 | |
5月12日 | 田村の瞽女3人 | 6文 | |
6月7日 | 別所村の瞽女4人 | 8文 | |
7月6日 | 神奈川在郷の瞽女3人 | 6文 | |
7月10日 | 大蔵村の瞽女4人 | 8文 | |
7月11日 | 稲毛領の座頭2人 | 16文 | 落合村より参り、貝取村へ |
7月22日 | 図師村の瞽女2人 | 4文 | 落合村へ |
7月25日 | 相州厚木の瞽女5人 | 10文 | 貝取村に宿泊、落合村へ |
9月18日 | 北領の瞽女3人 | 6文 | 落合村より参り、貝取村へ |
(不詳) | 松山の瞽女4人 | 8文 | 上和田村より参り、落合村へ |
9月29日 | 田無の瞽女2人 | 4文 | 貝取村より参り、落合村へ |
10月朔日 | 稲毛領大丸の瞽女3人 | 6文 | 貝取村より参り、落合村へ |
10月 | 瞽女9人(3人組、6人組) | 18文 | |
宝暦6年(不詳) | 相州の瞽女2人 | 4文 | |
8月6日 | 図師村の瞽女2人 | ||
8月14日 | 大目(青梅)在郷大門 | 4文 | 貝取村より参り、上和田へ |
村座頭春清ら2人 | 16文 | 勧化帳持参 | |
9月朔日 | 葛西の瞽女3人 | 6文 | 小野路村より参る |
10月12日 | 相州の瞽女4人 | 8文 | 落合村より参り、貝取村へ |
11月3日 | 武州程貝(保土ケ谷)の瞽女6人 | 12文 | 落合村より参り、貝取村へ |
11月 | 相州瞽女4人 | 8文 | 落合村より参り、貝取村へ |
11月20日 | 相州高座郡察教 | 16文 | 上和田村へ |
12月16日 | 武州方谷(保谷)の瞽女3人 | 6文 | 貝取村より参り、落合村へ |
宝暦9年3月 | 野図(津)田村の瞽女1人 | 2文 | |
4月9日 | 多摩郡福生村の座頭3人(其市坊、照市坊、遊泉坊) | 12文 | 江ノ島参詣のため、和田村より参り、貝取村へ |
4月15日 | 大丸村の瞽女3人 | 6文 | 和田村より参り、落合村へ |
5月25日 | 八王子在郷の瞽女2人 | 4文 | 貝取村から参り、落合村へ |
5月 | 上方何国の者 | 24文 | 江戸にて70日程病気、関戸村より参り、落合村へ |
閏7月14日 | 川部田村の瞽女3人 | 6文 | 落合村に宿泊 |
閏7月26日 | 本田からノ助奉公人 | 24文 | 上落合村より参り、下落合村へ |
8月1日 | 葛西の瞽女2人 | 4文 | 貝取村より和田村へ |
8月14日 | 墨田勾当弟子横川座頭長喜 | 12文 | 貝取村より参り、落合村へ |
10月8日 | 小野路村座頭慶光 | 8文 | |
10月22日 | 田名の瞽女6人 | 12文 | |
10月29日 | 瞽女3人 | 6文 | 上落合村より貝取村へ |
年月日 | 人数 | 宿泊先 |
寛延2年5月4日晩 | 瞽女6人 | 勘右衛門、唯右衛門、仁左衛門、八右衛門、甚右衛門、十右衛門 |
7月18日晩 | 別所村の瞽女3人 | 紋右衛門、市左衛門、平右衛門 |
7月23日晩 | 大沢村の瞽女2人 | 三左衛門、善兵衛 |
9月26・27日両晩 | 瞽女3人 | 伝助、善右衛門、与五兵衛 |
9月29日晩 | 相州の瞽女3人 | 吉兵衛、吉右衛門、作平 |
11月29日晩 | 葛西領の瞽女4人 | 久次郎、亦七、利左衛門、庄兵衛 |
12月5日晩 | 足立郡の瞽女10人 | 次左衛門、藤八、六郎右衛門、兵左衛門、源左衛門、浅右衛門、安兵衛、喜兵衛、与兵衛、権之丞 |
宝暦6年2月12日 | 柚木別所村の瞽女2人 | 定平、勘右衛門 |
4月19日 | 7人 | 権助、甚右衛門、八右衛門、金右衛門、仁左衛門、紋右衛門、市左衛門 |
6月 | 石田村の瞽女4人 | 平右衛門、善兵衛、伝助、善右衛門 |
6月11日晩 | 瞽女3人 | 源八、藤五、吉兵衛 |
(不詳) | 瞽女3人 | 治左衛門、六郎右衛門、伝六 |
10月11日晩 | 小野路村座頭(落合村より参り、貝取村へ) | (不詳) |
宝暦9年2月23日晩 | 柚木別所村の瞽女3人 | 定平、仁左衛門、八右衛門 |
6月15日晩 | 越後国頸城郡松野山名平村の坂東順礼のりよ、いと(砂川村より参る) | (不詳) |
8月21日晩 | 相州の瞽女5人(落合村より参る) | 紋左衛門、市左衛門、利右衛門、善兵衛、勝之進 |
9月23日晩 | 柚木大沢村の瞽女3人(国分寺より参る) | 伝助、善右衛門、与右衛門 |
11月23日晩 | 方平の瞽女2人(貝取村より参る) | 文左衛門、藤五郎 |
図6―37 座頭ごぜ出銭泊り帳
表6―33で示したように瞽女・座頭がやってくる場所は、日野、田村、別所村、神奈川在郷、大蔵村、稲毛領大丸村、図師村、厚木、田無村、大門村、葛西領、野津田村、福生村、和田村、八王子在郷、大沢村、足立郡、小野路村、越後国頸城郡松野山村(坂東順礼)などである。また、この表に載せた以外にも、明和八年(一七七一)の二月十四日に谷保本宿と中和田村の瞽女四人が、三月十六日には別所村の瞽女一人、七月十六日には瞽女四人、八月九日には小川新田の瞽女四人が乞田村に宿泊している(資二社経91)。確認できるだけでも現在の東京都世田谷区、葛飾区、青梅市、八王子市、稲城市、町田市、神奈川県横浜市、川崎市、厚木市などに及んでいる。居住する地域から数泊程度のそれほど遠くない地域からやってくる者が多く、遠いところでは瞽女ではないが、越後国頸城郡名平村のりよ、いとが坂東順礼の途中に立ち寄っている。また宝暦九年四月九日に来村した福生村の座頭三人が、道案内と宿泊を願った村役人宛の福生村名主文左衛門と組頭忠右衛門連名の書状を持っていたことは興味深い(有山昭夫家伝来文書143)。
宿泊する家は表6―34に示した。寛延二年五月四日に六人の瞽女が逗留しているが、宿泊先は勘右衛門、唯右衛門、仁左衛門、八右衛門、甚右衛門、十右衛門というように、瞽女一人一人が一軒ずつに割り振られている。瞽女を泊めるためには寝具が必要であり、唄を聞きにくる人が入ることができる広さの部屋も必要であり、中上層の農民の家が多かったものと思われる。通過のみの場合には、瞽女には二文、座頭には八文を出銭し、宿泊費とともに村入用でまかなっている。この時期より前になるが、元禄九年一月の乞田村の入用帳に座頭・御師などの入用分として一貫二四文が計上されている(資二社経89)。落合村の享保七年三月の村入用には一年間分の瞽女・座頭分として五〇〇文が計上されている(資二社経62)。
瞽女は毎月のようにやって来ているが七月と八月が多い。これは田植えなどの忙しさが一息ついた時期をねらったものであろう。冬の間は比較的少なく、この期間に稽古にあてていたと思われる。宿泊はほとんどが一泊である。寛延二年七月二十六日の場合は雨が降ったので翌二十七日にも泊まっている。人数は二~三人の場合が多く、これは旅歩きにも芸を披露するにも、宿泊するにも人数が多いと迷惑がかかるため、丁度都合のよい人数であった。しかし、寛延二年十二月五日には足立郡の瞽女が一〇人、宝暦六年四月十九日には七人が泊まっている例もある。
瞽女集団はイタコのいる東北地方の一部を除き全国的に存在し、瞽女の組織は駿府、江戸鉄砲洲、長岡、甲府、諏訪、沼津など城下町、門前町、宿場町などにあった。そこを拠点に瞽女は何らかの仲間組織をもって活動していたと思われる。組織力は弱く瞽女仲間の全国組織は存在せず、座頭仲間の地方組織の間接的な支配を受ける例が多かったと言われている。瞽女の研究は、長岡瞽女・高田瞽女・刈羽瞽女など越後についての研究は多く行われているが、関東や江戸周辺の研究は少なく、多摩の周辺地域の瞽女組織については今のところ詳しく知ることができない。越後の例によると、瞽女仲間は芸能を伝授する師匠(親方)と弟子の関係を基本単位としている。師匠は数軒集まって組をつくり、廻村は組単位で行われた。さらに幾組か集まって「仲間」・「座」が組織され、それを統制する瞽女頭が存在している。江戸周辺地域にもこのような組織が存在したと考えられるが、今後の研究が期待される。
ところで一八世紀後半には、困窮した盲人たちは遠くまで廻村するようになる。長期間滞在し農業経営に支障をきたし、共同体的なホスピタリティーの限度を越えるようになる。座頭・瞽女は風俗・治安の面からも、警戒すべき存在として、次に述べる浪人とともに取締り対象とされるようになる。