乞田村への来村

995 ~ 1000
瞽女・座頭は多摩地域にもやってきていることが確認できる。瞽女に関する資料は村入用帳などに散見されるのみでまとまったものは少ないが、有山昭夫家伝来文書には、寛延二年(一七四九)、宝暦六年(一七五六)、同九年の三か年分の「座頭ごせ出銭泊り帳」が存在する。これは乞田村にやってきた瞽女・座頭を記録したもので、宝暦六年分は七月以降からしか記されていないが、この資料はめずらしく貴重なものである。それを基にまとめたのが表6―33・6―34である。
表6―33 寛延二年、宝暦六・九年の乞田村来村の瞽女・座頭などへの出銭一覧
年月日 人数 出銭額 備考
寛延2年2月5日 瞽女3人 6文
2月12日 瞽女3人 6文
3月16日 日野の瞽女5人 10文
5月12日 田村の瞽女3人 6文
6月7日 別所村の瞽女4人 8文
7月6日 神奈川在郷の瞽女3人 6文
7月10日 大蔵村の瞽女4人 8文
7月11日 稲毛領の座頭2人 16文 落合村より参り、貝取村へ
7月22日 図師村の瞽女2人 4文 落合村へ
7月25日 相州厚木の瞽女5人 10文 貝取村に宿泊、落合村へ
9月18日 北領の瞽女3人 6文 落合村より参り、貝取村へ
(不詳) 松山の瞽女4人 8文 上和田村より参り、落合村へ
9月29日 田無の瞽女2人 4文 貝取村より参り、落合村へ
10月朔日 稲毛領大丸の瞽女3人 6文 貝取村より参り、落合村へ
10月 瞽女9人(3人組、6人組) 18文
宝暦6年(不詳) 相州の瞽女2人 4文
8月6日 図師村の瞽女2人
8月14日 大目(青梅)在郷大門 4文 貝取村より参り、上和田へ
村座頭春清ら2人 16文 勧化帳持参
9月朔日 葛西の瞽女3人 6文 小野路村より参る
10月12日 相州の瞽女4人 8文 落合村より参り、貝取村へ
11月3日 武州程貝(保土ケ谷)の瞽女6人 12文 落合村より参り、貝取村へ
11月 相州瞽女4人 8文 落合村より参り、貝取村へ
11月20日 相州高座郡察教 16文 上和田村へ
12月16日 武州方谷(保谷)の瞽女3人 6文 貝取村より参り、落合村へ
宝暦9年3月 野図(津)田村の瞽女1人 2文
4月9日 多摩郡福生村の座頭3人(其市坊、照市坊、遊泉坊) 12文 江ノ島参詣のため、和田村より参り、貝取村へ
4月15日 大丸村の瞽女3人 6文 和田村より参り、落合村へ
5月25日 八王子在郷の瞽女2人 4文 貝取村から参り、落合村へ
5月 上方何国の者 24文 江戸にて70日程病気、関戸村より参り、落合村へ
閏7月14日 川部田村の瞽女3人 6文 落合村に宿泊
閏7月26日 本田からノ助奉公人 24文 上落合村より参り、下落合村へ
8月1日 葛西の瞽女2人 4文 貝取村より和田村へ
8月14日 墨田勾当弟子横川座頭長喜 12文 貝取村より参り、落合村へ
10月8日 小野路村座頭慶光 8文
10月22日 田名の瞽女6人 12文
10月29日 瞽女3人 6文 上落合村より貝取村へ
(注)有山昭夫家伝来文書139より作成。

表6―34 寛延二年、宝暦六・九年の乞田村宿泊の瞽女・座頭など一覧
年月日 人数 宿泊先
寛延2年5月4日晩 瞽女6人 勘右衛門、唯右衛門、仁左衛門、八右衛門、甚右衛門、十右衛門
7月18日晩 別所村の瞽女3人 紋右衛門、市左衛門、平右衛門
7月23日晩 大沢村の瞽女2人 三左衛門、善兵衛
9月26・27日両晩 瞽女3人 伝助、善右衛門、与五兵衛
9月29日晩 相州の瞽女3人 吉兵衛、吉右衛門、作平
11月29日晩 葛西領の瞽女4人 久次郎、亦七、利左衛門、庄兵衛
12月5日晩 足立郡の瞽女10人 次左衛門、藤八、六郎右衛門、兵左衛門、源左衛門、浅右衛門、安兵衛、喜兵衛、与兵衛、権之丞
宝暦6年2月12日 柚木別所村の瞽女2人 定平、勘右衛門
4月19日 7人 権助、甚右衛門、八右衛門、金右衛門、仁左衛門、紋右衛門、市左衛門
6月 石田村の瞽女4人 平右衛門、善兵衛、伝助、善右衛門
6月11日晩 瞽女3人 源八、藤五、吉兵衛
(不詳) 瞽女3人 治左衛門、六郎右衛門、伝六
10月11日晩 小野路村座頭(落合村より参り、貝取村へ) (不詳)
宝暦9年2月23日晩 柚木別所村の瞽女3人 定平、仁左衛門、八右衛門
6月15日晩 越後国頸城郡松野山名平村の坂東順礼のりよ、いと(砂川村より参る) (不詳)
8月21日晩 相州の瞽女5人(落合村より参る) 紋左衛門、市左衛門、利右衛門、善兵衛、勝之進
9月23日晩 柚木大沢村の瞽女3人(国分寺より参る) 伝助、善右衛門、与右衛門
11月23日晩 方平の瞽女2人(貝取村より参る) 文左衛門、藤五郎
(注)有山昭夫家伝来文書139より作成。


図6―37 座頭ごぜ出銭泊り帳

 表6―33で示したように瞽女・座頭がやってくる場所は、日野、田村、別所村、神奈川在郷、大蔵村、稲毛領大丸村、図師村、厚木、田無村、大門村、葛西領、野津田村、福生村、和田村、八王子在郷、大沢村、足立郡、小野路村、越後国頸城郡松野山村(坂東順礼)などである。また、この表に載せた以外にも、明和八年(一七七一)の二月十四日に谷保本宿と中和田村の瞽女四人が、三月十六日には別所村の瞽女一人、七月十六日には瞽女四人、八月九日には小川新田の瞽女四人が乞田村に宿泊している(資二社経91)。確認できるだけでも現在の東京都世田谷区、葛飾区、青梅市、八王子市、稲城市、町田市、神奈川県横浜市、川崎市、厚木市などに及んでいる。居住する地域から数泊程度のそれほど遠くない地域からやってくる者が多く、遠いところでは瞽女ではないが、越後国頸城郡名平村のりよ、いとが坂東順礼の途中に立ち寄っている。また宝暦九年四月九日に来村した福生村の座頭三人が、道案内と宿泊を願った村役人宛の福生村名主文左衛門と組頭忠右衛門連名の書状を持っていたことは興味深い(有山昭夫家伝来文書143)。
 宿泊する家は表6―34に示した。寛延二年五月四日に六人の瞽女が逗留しているが、宿泊先は勘右衛門、唯右衛門、仁左衛門、八右衛門、甚右衛門、十右衛門というように、瞽女一人一人が一軒ずつに割り振られている。瞽女を泊めるためには寝具が必要であり、唄を聞きにくる人が入ることができる広さの部屋も必要であり、中上層の農民の家が多かったものと思われる。通過のみの場合には、瞽女には二文、座頭には八文を出銭し、宿泊費とともに村入用でまかなっている。この時期より前になるが、元禄九年一月の乞田村の入用帳に座頭・御師などの入用分として一貫二四文が計上されている(資二社経89)。落合村の享保七年三月の村入用には一年間分の瞽女・座頭分として五〇〇文が計上されている(資二社経62)。
 瞽女は毎月のようにやって来ているが七月と八月が多い。これは田植えなどの忙しさが一息ついた時期をねらったものであろう。冬の間は比較的少なく、この期間に稽古にあてていたと思われる。宿泊はほとんどが一泊である。寛延二年七月二十六日の場合は雨が降ったので翌二十七日にも泊まっている。人数は二~三人の場合が多く、これは旅歩きにも芸を披露するにも、宿泊するにも人数が多いと迷惑がかかるため、丁度都合のよい人数であった。しかし、寛延二年十二月五日には足立郡の瞽女が一〇人、宝暦六年四月十九日には七人が泊まっている例もある。
 瞽女集団はイタコのいる東北地方の一部を除き全国的に存在し、瞽女の組織は駿府、江戸鉄砲洲、長岡、甲府、諏訪、沼津など城下町、門前町、宿場町などにあった。そこを拠点に瞽女は何らかの仲間組織をもって活動していたと思われる。組織力は弱く瞽女仲間の全国組織は存在せず、座頭仲間の地方組織の間接的な支配を受ける例が多かったと言われている。瞽女の研究は、長岡瞽女・高田瞽女・刈羽瞽女など越後についての研究は多く行われているが、関東や江戸周辺の研究は少なく、多摩の周辺地域の瞽女組織については今のところ詳しく知ることができない。越後の例によると、瞽女仲間は芸能を伝授する師匠(親方)と弟子の関係を基本単位としている。師匠は数軒集まって組をつくり、廻村は組単位で行われた。さらに幾組か集まって「仲間」・「座」が組織され、それを統制する瞽女頭が存在している。江戸周辺地域にもこのような組織が存在したと考えられるが、今後の研究が期待される。
 ところで一八世紀後半には、困窮した盲人たちは遠くまで廻村するようになる。長期間滞在し農業経営に支障をきたし、共同体的なホスピタリティーの限度を越えるようになる。座頭・瞽女は風俗・治安の面からも、警戒すべき存在として、次に述べる浪人とともに取締り対象とされるようになる。