浪人の横行

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大名の改易などによって失業した浪人は、安定した時代では再仕官が厳しくなり、合力銭、昼食、止宿などを強要し、武者修業と称し不法な行為を働きながら村々を徘徊した。このような浪人は村々にとって、歓迎される来村者とはいえなかった。浮浪する浪人らの合力銭を村入用によって負担していたため、それが膨大なものとなり、治安ばかりでなく村の財政を圧迫した。それは浪人ばかりでなく、外から村に入ってくる者にいかに対応するかが大きな問題となってきたのである。明和六年(一七六九)三月と安永三年(一七七四)十月に浪人・旅僧などの取締り強化の法令が出されている。この頃村々には浪人者ばかりでなく、無宿・悪党・博徒なども横行するようになっていた。関東農村では近世中期以降商品経済の浸透や飢饉・災害の発生により、農民層の分解が進行し、農業経営を維持することができない農民が潰百姓となって欠落するようになった。彼らは無宿・悪党となって村々を横行して治安の悪化や社会秩序を乱す原因となっていた。関東の所領形態は一般的に幕領・藩領・旗本領・寺社領が複雑に入り組んだ状況にあり、一村ごとでは治安を乱す無宿・悪党を取り締まることは困難であった。それは警察権が各領主の支配領域にしか及ばす、他領に逃げ込むと手を出すことができなかったからである。そこで関東の支配体制を補うために文化二年(一八〇五)に設置されたのが関東取締出役(八州廻り)である。出役は勘定奉行の支配下となり、幕領・藩領(一部の藩領は除く)・旗本領など個々の領主の支配領域を越えて廻村し、博徒や無宿・悪党などを取り締まった。