寄場組合村の編成

1002 ~ 1003
文政十年(一八二七)に関東取締出役の下部機関として寄場組合村が編成された。寄場組合村は領主の異同に関係なく三~五か村を小組合とし、全体では約四五か村ぐらいを以て大組合とし、交通の要所などの村を寄場に指定して、その村の名主を寄場役人に任命している。そして大組合、小組合の中から大惣代・小惣代を選び、寄場役人とともに組合村の運営・統轄を行わせた。また私領での捜査活動は領主・地頭の警察権を制限するものではなく、両者は競合関係にあった(森安彦『幕藩制国家の基礎構造』)。表6―36は多摩市域の村々が所属した日野宿組合である。日野宿組合は、八つの小組合、四四か村からなっている。組合村の編成は、従来の郡・領・筋などの行政機構によったものではない。そして単に地理的な便宜だけでなく、助郷組合・用水組合などその地域の結び付きが多分に考慮され、日野宿の場合は同宿の助郷村がすべて編入されている。寄場役人には日野宿役人名主隼太、同彦右衛門、大惣代には連光寺村名主忠右衛門、柴崎村名主次郎兵衛、小惣代には上田村名主忠蔵、粟須村名主忠左衛門、郷地村名主七五郎、平村名主浅右衛門、下落合村名主伝次郎、関戸村名主篤次郎、別所村名主藤七、松木村名主市郎左衛門が任命されている(柳田和久「関東における農村構造の変質と文政改革―主として武州多摩郡日野宿組合を中心に―」『法政史学』三〇)。
表6―36 日野宿寄場組合の構成
村名 村高
日野宿 2304.721
石田村 156.392
新井村 148.017
万願寺村 107.673
下田村 151.422
上田村 146.812
宮村 118.227
川辺堀之内村 172.864
小計 3306.128
豊田村 369.174
石川村 876.900
粟須村 309.985
平村 43.000
日野新田 23.737
小計 1622.796
柴崎村 1139.339
築地村 115.568
郷地村 268.598
福島村 442.571
中神村 475.571
宮沢村 471.690
小計 2913.337
平山村 460.820
平村 271.043
高幡村 193.300
三沢村 267.498
程久保村 50.235
落川村 375.320
小計 1618.216
和田村 366.986
百草村 300.000
落合村 412.661
乞田村 358.973
小計 1438.620
連光寺村 272.658
関戸村 512.039
一ノ宮村 378.388
寺方村 62.939
貝取村 143.946
中河原村 117.777
小計 1487.747
大塚村 398.211
別所村 148.120
堀之内村 604.276
中野村 384.564
小計 1535.171
越野村 178.298
松木村 277.021
大沢村 381.000
上柚木村 412.400
下柚木村 399.124
小計 1647.843
合計 15569.858
(注)柳田和久「関東における農村構造の変質と文政改革」(『法政史学』30)より作成。

 このように寄場組合村が編成され取締りが強化されても限界があり、度重なる浪人の来訪、横暴に苦慮した村では、有力な浪人らに対して、一定の仕切金・世話料・浪士留料を支払い、その間は浪人が村に立ち入り迷惑をかけないという契約を取り結んでいる。これは合力や止宿の取り扱いに困った村から浪人らに依頼したもので、村が有力な浪人に「仕切料」を支払うことで、一定期間他の浪人に合力や止宿の要求をさせないというものであった。応接窓口を組合村など一定地域内で一か所に限定し、一年間に必要な費用を「仕切料」として渡すのである。浪人にとっても村から一定の金銭を確保できるため都合が良かった。仕切契約は、文政九(一八二六)年の下野国河内郡下岡本村のものが今のところ初見であるが、浪人の前借などが頻繁に起りやがてこれは消滅していった(川田純之「下野における徘徊する浪人と村の契約」『地方史研究』二四八)。
 多摩地域においても、仕切契約が行われていた形跡が認められる。天保十五年に上和田村名主庄右衛門が、「浪人仲間惣代がやって来たが、当年より拙宅にて仕切りの取り計らいはしない。止宿合力は村方の勝手次第に取り計らうように」(寺沢茂世家伝来文書16)という廻状を出していることから、この時以前には仕切契約が行われていた可能性があるが、詳しいことは不明である。