旗本が異国船への対応に動員される端緒は、天保十三年(一八四二)に、大名同様旗本にも海防手当を命じる幕令が出されたことにある。嘉永二年(一八四九)十二月には、「就中、近来異国船度々所々江渡来いたし候ニ付而者、海岸警衛向之儀度々諸家江も被仰出有之、……元来文武之儀者組々与力同心ニ至迄、御膝元之衛士ニ候得者、非常之節者、其頭々之指揮に従ひ、御守衛第一とすへき」「仮令御勝手方相勤候者たり共、士道ニをゐて差別ハ無之儀」(『通航一覧続輯』第五巻)と、旗本を膝もとの衛士と位置付けて、番方にかぎらず役方の旗本も海防に動員することが命じられているが、やはり現実のペリー来航を経験してから、本格化していくことになる。
嘉永六年(一八五三)六月のペリー来航時には、番方・寄合を中心に旗本も多数動員された。しかしいくつかの史料から、個々の旗本が江戸屋敷に陣夫を呼び寄せているのを確認することは出来るが、全貌は不明である。幕府は動員した旗本に扶持給付を行っているが、規定軍役(幕府は弘化三年(一八四六)に慶安軍役令を正式と表明していた)よりも少ない実働人数分のみを給付するとしている(針谷武志「内陸旗本と海防」『地方史研究』二二四)。
嘉永六年九月には、旗本の海防軍事力を補強するために、旗本御家人へ一律に拝借金を貸与した。「御旗本御家人等勝手向困窮之趣被為及聞召、格別之訳を以思召、万石以下御旗本之面々并御家人まて拝借金被仰付、小給之もの末々ニ至候而者、夫々御金被下候旨被仰出候、右様格別之御仁恵を蒙り候上者、兼々被仰出候非常之心得専一ニいたし、弥以質素節倹相用、武器等分限ニ応し誠実ニ相嗜候様可致候、万一心得違之もの於有之者、急度御沙汰之品も可有之事ニ候条」(『通航一覧続輯』第五巻)とあるように、その一方で武器の常備を義務づけたのである。この拝借金は五〇〇〇石以上が二〇〇両、三~四〇〇〇石が一五〇両、二〇〇〇石が一〇〇両と高禄の者から、切米一四俵以下の金二両に至るまで一律に与えられ、一〇年賦で返済を命じていたが、安政二年(一八五五)九月に返納免除となった(内閣文庫「安政雑記」)。個々の額は少ないが、全ての旗本に給付したとなると総量は膨大なものとなろう。実際、交代寄合の高木氏にはこの時の史料が残っている(針谷前掲論文)。
ところで市内の史料の中で、海防動員との係わりを示す史料は、あまり残っていないが、和田村と領主旗本浅井氏との関係を示す史料がある。それによると、この海防武備拝借金の幕令のあった嘉永六年九月に、浅井氏は和田村へも武器修復を名目に、上金三〇両を申付けている。知行所村々の身元よろしき者へ既に一度上金を命じた上での再度の命令で、元名主杢右衛門を除くように指示してある(資二社経2)。これはこの年十一月には納入されたようで、地頭用人が発給した受取書も残っている(資二社経22)。前述したように、六月にペリーが来航し、来春の再訪を告げて一度退帆していたこの時期、幕府は一方で台場建築に、一方で旗本の軍事力を強化するために必死になっていた。浅井氏の屋敷は安政六年(一八五九)時には市ケ谷にあったが、浅井氏は両番(書院番・小姓組番)になる家筋であったから(資二社経34、『江戸幕府旗本人名事典』)、海防への切迫感はあったと見てよいだろう。実際に、安政元年(一八五四)正月にペリーが再来した時には、両番方は鉄砲方とともに浜御殿へ繰り出したのである。
安政元年の二月に、浅井氏知行所の清水村(東大和市)・下田村(日野市)・中和田村・寺方村の名主・組頭・百姓惣代より浅井氏へ訴願書が出されている(資二社経23)。その内容は、異国船渡来の節の夫人(陣夫)を交代で勤めさせてくれる筈のところ、代りの者が罷り出ても交代はあいならず、と厳重に申渡されてしまった。それでは元来困窮の百姓が、留守中家内ばかりでは相続がなりかねる、足軽以上の侍はともかく、それ以外の夫人ばかりは出陣までの間だけでも交代で勤めさせてくれ、というものである。
安政元年正月中旬に渡来したペリー艦隊は七隻であった。幕府は浦賀での応接を再三申し入れたがペリーは聞き入れず、江戸湾を北上して砲艦外交による恫喝を行い、二月中にさらに二隻が到着、開戦が危惧される緊張が続いていた。こうした中で浅井氏は多摩郡の知行所四か村から陣夫として百姓を江戸屋敷へ呼び寄せて待機させており、出陣はいつあるかも分からないという緊迫した情況下に、領主は陣夫の交代を止めていたのであろう。領民たちは「百姓成立」を理由にたててこれを忌避しようとしたのだが、困窮や百姓成立(相続)は訴願の常套文句、果たして戦争への恐怖がなかったとは言い切れない。これが許可されたのかどうかは不明である。しかし許可をまつまでもなく、ペリーは横浜に上陸して、三月三日に和親条約が調印され、一応開戦は回避されたのであった。