和親条約が結ばれ、日本は鎖国政策を放棄して通商関係を結ぶことがいよいよ確定してくると、旗本の軍事強化策も推進され、安政三年(一八五六)には講武所が設置されてその中心となった。ここでは洋式砲術の調練も行われ、封建軍隊からの脱却への準備となっていった。
ペリー来航時に老中だった阿部正弘は安政四年に死去し、佐倉藩主堀田正睦が対外問題を主管していたが、翌安政五年四月に井伊直弼が大老に就任した。この後、懸案であった日米通商条約の調印と将軍継嗣問題を強権的に処理し、これに抵抗した諸士を処罰する安政の大獄がおこり、水戸藩への密勅返納問題が端緒となって、水戸藩士らによる桜田門外の変がおこるなど、目まぐるしく幕政は変動した。井伊政権の後に幕政を主導した老中安藤信正・久世広民らは、井伊の残した懸案の一つである和宮の将軍家茂への降嫁を成功させることを第一の政治目標としていた。これも攘夷実行を交換条件にようやく実現するなど、もはや幕府の一存では国政が通用しない段階になりつつあった。
和宮は文久元年(一八六一)十月京都を出立し、中仙道を江戸に向かった。この行列の通行負担のために、関東では広範に助郷人馬の動員があり、多摩郡の村々は板橋宿へ人馬を出した。