改革組合村と領主在邑奨励

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文久二年(一八六二)正月、坂下門の変で老中安藤信正が負傷して政権から退き、薩摩藩国父(藩主の父)の島津久光が上京、参府して幕政改革を斡旋したのを受けて、幕政改革が行われたが、眼目は大名の参勤交代制の緩和と、それに代替しうる幕府直轄軍の軍制改革であった。これによって旗本へは軍役半減を命じる代りに、その知行所から兵賦の取立てが命じられた。この農兵徴発によって、三兵組織(歩兵・騎兵・砲兵)の歩兵隊の創出に充てることが目指された。五〇〇石の旗本からは一名、一〇〇〇石の旗本からは三名、三〇〇〇石ならば一〇名という基準であったが、三〇〇〇石以下は当面半減とし、調達困難な場合は金納も許可された(兵賦一名に付一〇両)。旗本自身は騎兵に充てることになった。この政策は封建軍隊の従者を主人から切り離して別隊組織に編制することを目的としたものである。
 参勤交代制度は、大名が旅行して江戸に住まうということだけではなく、幕府が大名へ江戸での様々な役務を課し、それで江戸の守衛にかかわる機能(門番や火消など主に軍事・治安的機能)の一部を担わせるという意味があった。それが崩れると、軍事的な機能を代替させるために、旗本の軍事力を強化するだけでなく、直接兵賦を徴収する形であらたな対応を図ったのである。しかし文久期には江戸の問題だけでなく、江戸周辺の治安悪化に対応する必要もあった。参勤交代制緩和のなかで、国持外様大名だけでなく、関東に所領を持つ譜代大名らも在邑することが期待され、さらに旗本へも知行所へ土着することが奨励された。これまでの改革組合村の治安力ではもはや対応できない段階のなかで、領主の軍事力が求められたのである。
 これまで幕府は内憂外患に対応するために、領主相互が援兵を出しあう態勢でのり切ろうとしたことは前述したが、そのための幕令は大名へ触れ出すだけであった(享保十九年(一七三四)令や寛政九年(一七九七)令など)。しかしこの段階になると、大名へ命じた幕令をまた関東取締出役が村々へも触れ出すという二重化した触書の構造をとるようになった(万延二年(一八六一)令など)。とくに元治元年(一八六四)の関東の内戦状態のなかでは、大名・旗本と関東取締出役とが「相互ニ打合候様可致」と命じられている(『寒川町史』3資料編近世(3))。急速な治安悪化のなかで、いっそう農民を駆り立てようとする姿勢がより濃厚になってくる。それが農兵の取立てへと繋がっていった。
 文久三年(一八六三)、代官江川太郎左衛門(英敏)の建議により、支配地に農兵設置が許可された。多摩・入間郡一八五村で三一〇名の農兵取立て計画であった。日野宿組合では十月段階では、農兵三九名、手代三九名が予定されていたが、これは幕領の江川農兵と呼ばれるものである。一方関東取締出役からの通達で改革組合村の武装化が命じられ、遅くとも慶応二年(一八六六)までには、日野宿組合にも農兵が設置された。この組合村農兵は連光寺村で四二名、日野宿組合全体で一〇九〇名という多数を数え、村の組織と組合村の組織がそのまま利用された。
 こうしたことが文久三年に急速に進展した背景には、前年の島津久光の参府の帰りに起きた生麦事件の影響で、文久三年正月には横浜沖にイギリス艦隊が集結して幕府が開戦を危惧していたということがある。