中世に源流をもつ池坊の立花と、それよりやや遅れて成立した茶の湯に派生した抛入花(なげいればな)を融合させ、天地人あるいは真行草といった簡易な三角形を基本とする型式を考案し、貴族や上層武家のものであった「いけばな」を「生花」として庶民の間に普及させたのは明和、安永年間の十八世紀の後半からであった。
生花は「いけばな」、「しょうか」と呼ばれたが、別に格花、挿花などの名称もあった。本節においては、立花、抛入花、生花を総称する場合は「花道」あるいは「いけばな」という名称を、生花一般については「生花」という名称を、後述する袁中郎流(えんちゅうろうりゅう)および允中流(いんちゅうりゅう)については「挿花(そうか)]という名称を使用することとする。
立花の心、正心、副、請、流枝、控枝、見越、前置、胴作、大葉、後囲、繕之具といった役枝は「ものうく」(『生花秘伝図式』寛政十年刊)、他方、「抛入花」は「即興の翫物」(『生花枝折抄』安永二年刊)としてあまりに手軽に過ぎるとしりぞけられるようになった。民家調査においては、天明三年(一七八三)の浅間噴火直後の建築であるが、在来の押板に代って伊勢崎郊外の養蚕農家に間口六尺、奥行三尺の床の間が設けられたことが報告されている。大分隔った地域のことであるが、この時期あたりに床の間が設けられるようになったことが推定される。多摩郡本宿村小野宮(府中市住吉町)の医師内藤重喬が天保八年(一八三七)に記した見聞記『避暑漫筆』は、「享保の頃より宝暦の末まてハ、人々の住居さしての大廈(たいか)も少く、兎角質素にして家造低く大風なと厭ふてとなん、一村の内にも天井一間二間も有家は少なく一二間にして、床は竹の簀掻(すがき)に藁籍(ねこ)(藉)といふ物を敷、或は薄縁畳といふハ夏の中、茅かやを引取干して藁みごを縄にして自ら莚織機にて織、茅かや表と名付八畳か十畳も敷入候を客のもうけとす、(中略)天明寛政の頃より追々世間あらたまり、家造り棟高くあるハ二階家、天井無家ハ少なくなり、各床も磨板にし、畳も琉球表ハ更に備中早嶋表等縁付を用い(後略)」と天明・寛政年間の住居の大きな変化を知らせてくれる。床の間には言及していないが、縁付の早嶋表使用の座敷は、当然床の間の存在を示唆しているものと思われる。
このような住居の床の間ないし部屋には、立花では重々しく、抛入花では安易過ぎたのである。生花は、立花のような煩しい約束事がなく自由であったので、「規約なき故、十流百流と分れ」(『古流生花四季百瓶図』安永六年刊)といわれ、容易に流儀を唱えることができた。それだけに都市の庶民、江戸近郊の農民の間に急速に普及していった。これまでの文化は上方のものであったが、生花の中心地は江戸であった。しかし、その享受者は、立花の時代と変わりなく、主として男性であった。
十八世紀といえば、江戸は世界一の百万都市になったといわれる。それに応じて、幕府は江戸地廻り経済圏の形成に力をそそぎ、関東周辺の産物は在方市場経由、あるいは直接に江戸に集中するようになった。地方農村には、在方商人、運送業者が生まれ、酒造り、油絞り、質店渡世などのいわゆる農間余業がさかんになった。それらの人々は貨幣経済の浸透に乗じて質地地主となり、やがては土地を集中していった。
当時、江戸の文化は「町人文化の時代」と呼ばれ、かなり下層の庶民にまで及んだといわれるが、他方農村では富裕層、すなわち先述した人達が文化の担い手であった。和歌、俳諧はもちろん、生花、剣術、蹴鞠、香道に至るまで行なわれるようになった。初めは個々に江戸に学び習っていたものが、後には地元に同好者を獲得し、文化を定着させていくという、この時代の文化の特徴である「質から量へ」の転換がみられる。