袁中郎流の分布

1022 ~ 1025
伴主は天保五年(一八三四)、允中流創始の経緯を記した『流儀開闢之釈』という小冊子を書いている。それによると、一八歳の天明五年(一七八五)に江戸に出て、桐谷鳥習(花号徚雲斎)について袁中郎流を学んだとある。鳥習は流祖梨雲斎、師青雲斎については伝記を残しているが、自分のことは一切残していない。弟子の分布よりして相模の出身者と思われ、、また寒川町の資料集によると沼間村(逗子市)出身と考えられる。姓も「きりがや」と読むのが正しいようである。
 さて、袁中郎流は、明の袁中郎の著わした『瓶史(へいし)』の影響を受けて、江戸の望月義想(一七二二~一八〇四)が創始した生花の一派である。
 袁中郎(一五六八~一六一〇)は明末の万暦年間の詩人であった。字名を宏道といい、袁三兄弟の中兄であったので袁中郎と呼ばれた。宏道は商工業が盛んであった蘇州地方の県知事を勤めたことがあり、蘇州地方の民謡に詩の真髄を見出した。したがって、格調を重んじた唐詩を模範とする擬古派を排斥して、「古しえには古しえの時あり、今には今の時あり」と、終始して自由な民衆詩を主張した。その詩論は「性霊説」と名付けられ、わが国江戸時代後半期の漢詩に大きな影響を与えた。『瓶史』は、花材は手近のものを求め、花器は特別なものを必要とせず、庶民の身近な風雅に符合したことにより、望月義想(花号梨雲斎)はこれを土台にして生花の一派を創始したのである。
 明和七年(一七七〇)には、三巴原田渓涯(花号青雲斎)と新甫山和井をして、『瓶史』の序文を詳解した『瓶史述要』を刊行させた。ついで天明元年、自ら『瓶史』の全文を校訂し翻刻している。

図6-40 「袁中郎流挿花図会」三、四より挿図四点

 さらに、文化五年(一八〇八)から七年にかけて、徚雲斎は亡師青雲斎の遺志を継ぎ、『瓶史国字解』(以下『国字解』)四冊と、梨雲斎の門弟・孫弟子の諸先生撰『袁中郎流挿花図会』(以下『図会』)九冊の、合計一三冊を刊行した。これは花道書として大冊に属するものであった。書肆(しょし)は有名な千鐘房須原屋茂兵衛(七代茂広)以下三都六軒の合同出版である。
 『国字解』の序文は、宏道の詩論である性霊説をひろめた山本北山、亀田鵬斎が筆を執っている。『瓶史』は、序と一二章、すなわち、花目、品第、器具、択水、宜称、展俗、花崇、洗沐、使令、好事、清賞、監戒からなっている。これを、徚雲斎はわが国の例を引き比べながら詳細かつ平易に注釈している。
 『図会』九冊は、徚雲斎撰三冊、梨雲斎門弟の嶺雲斎撰、同じく峯雲斎撰、同じく祥雲斎撰、峯雲斎門弟の東雲斎撰、徚雲斎門弟の䜯雲斎撰、同じく潭雲斎(伴主)撰の各一冊から成る。図会の名が示すように花図が主眼であって、かたわらに作者の氏名、花号、住所が記されている。一人一作で合計三三七名の作品が掲載されている。この地域的分布をみてみると、江戸一四三名、相模八九名、武蔵三三名、加賀一八名、上総一四名、越後八名、甲斐六名、下総五名、尾張四名、紀伊四名、信濃三名、三河三名、肥後二名、その他五名となっている。しかも、これらの門弟が一部に過ぎなかったことは、徚雲斎撰『図会』に「文化三年丙寅九月初二日徚雲斎門人相州連中四百四十六人於雨降山挿花大会之砌挿之 徚雲斎門人足柄郡府川住 新川穐子」とあることからわかる。以上で袁中郎がいかに広く分布し、しかも多くの門人を持っていたかが理解していただけたことであろう。
 花図の筆者は相州の僧䜯雲斎であった。師の徚雲斎は䜯雲斎について、「元来画の一向に知らぬ人なり、花は予が門人にて技芸の堪能なる上手なり、故に其挿花の力を以て、其の数々の挿花の図、其挿たる人の心根を諭って正写にし、瓶器、花台等に至迄、花姿、水中、梢、花形、葉数、葉組、枝数等に至迄、悉皆秋毫も過真写せし也」と紹介している。
 徚雲斎『図会』の凡例には、袁中郎流の技法が詳細に述べられている。その特色とするところを要約しよう。一つには、花賦に俣木を発明したこと。立花で用いていた藁束を改良するとともに、抛入花のように花枝が花瓶の口に着くのを避けたこと。二は、俣木の利用によって、花枝が花瓶の中央より出るようにし、水中より水際の根元まで丸く一木になるように工夫したこと。三は、植物の出生の意態を失わせぬために、花枝の中程より上に手を付けることを戒めたこと。四は、花材に花の無いもの、また他流では嫌う刺のある深山櫁の類までも花材に採用したこと。五は、一色挿、すなわち一つの花器に一種類の花木を挿すことを強調し、数種類を挿すときは一瓶ずつととのえ、数瓶合せて一瓶の趣になるよう工夫したこと。六は、中国の例にならって、脚の長い花台を採用し、挿花を床の間の飾りに限定せず、広く部屋全体の飾りとしたことである。
 化政期は、文化の中心が京・大坂の上方から江戸に移った時代といわれている。これは、江戸における印刷技術の発展に負うところも大きかった。当時生花各派は例外なく、印刷刊行物によって流勢発展を図っている。『国字解』・『図会』の刊行は、袁中郎流にとって開流以来の成果を結集した記念すべき刊行物であるとともに、図会の名が示すように作品の図示を主眼としたもので、内部的にはよきテキストであり、外部的には優雅な叢書であったに違いない。
 なお、袁中郎流という流名は当初から、袁中郎という人名が庶民に膾炙されていないためか、字名の宏道流とも呼ばれていた。現存する袁中郎流(宏道流)は管見する所では、家元の梨雲斎派、青雲斎派、熊本に伝わった肥後宏道派、そして、八王子に明治年間再興された峯雲斎派ならびに伴主の師であった徚雲斎派がある。