伴主と袁中郎流

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先述した『流儀開闢之釈』によると、伴主は一八歳で徚雲斎について袁中郎流の挿花を学び、二九歳で奥儀を許された。そして四二歳の文化六年(一八〇九)に『図会』の一冊を潭雲斎登毛奴之(たんうんさいともぬし)として撰した。撰者としては徚雲斎門弟のなかの二人のうちの一人であり、その技量の程もうかがわれよう。

図6-41 袁中郎流系統図(「袁中郎流挿花図会 正統」より作成 枠内は図会編さん者)

 伴主が『図会』の一冊を編んだということは、個々の点として江戸に結ばれていたものが、伴主という中継点に束ねられることによって、小さいながらグループとしての量を獲得したことであり、多摩郡の花道にとっては画期的なことであった。
 伴主は、この頃すでに江戸留学から関戸村に戻っており、父五流の跡を継いで源左衛門と称し、代官領の年寄名主を勤めていた。大田南畝が支配勘定として多摩川堤防の見分にきたのが、文化五年十二月十六日から翌年四月三日にかけてのことであった。その年の一月六日、南畝は伴主のもとに立寄っている。その折、伴主が『図会』の序文を依頼したのであろう。『調布日記』に「潭雲堂挿花図会序」が載せられている。筆まめな南畝は出張中にすでに草稿をしたためていたことがわかる。帰府後、数か所を訂正の上、伴主に贈ったものと思われる。南畝は挿花に興味がうすかったようで、その序文も「瓶史を作りて名のミこと/\しうひき出らるゝ、から人の流をくむ人々の手すさひをうつし絵にものして、ます鏡むかひか岡にむかふが如くなるを、玉川の手つくり手つから携へ来り、そのことのよし書てよと、さら/\のもとめいなミかたく、いさゝか水茎のあとをとゝむる事になんありける」とあっさりした調子で結んでいる。潭雲斎撰『図会』に所載されたのは二九名で、ほとんど多摩郡の人達であった。その住所・氏名・花号を挙げておく(表6-38)。
表6―38 「袁中郎流挿花図会」所載門弟一覧
相弟子(6名)
内藤和十郎騰雲斎月貫
府中市小野宮 内藤次左衛門鱒住
多摩市関戸 井上林蔵梅枝
多摩市連光寺 富澤惣左衛門有台
日野市平 平多左衛門麿人
昭島市拝島 雅井
門弟(23名)
多摩市関戸 井上与市郎関守
多摩市関戸 相澤栄蔵
多摩市落合 小山源右衛門社長
多摩市落合 寺澤伝治郎
八王子市柚木堀之内 保井寺盤山成雨
八王子市越野 富澤幸右衛門
八王子市長房 峯尾孝太郎維水
八王子市八王子 松門寺鳥道
日野市平 平多吉和風
日野市石田 土方丈八郎両河
立川市柴崎 鈴木五市良湖
昭島市拝島 玉水屈無角
日出町大久野 光珠庵主巣雲斎未醒
日出町大久野 下忠蔵李蹊
日出町大久野 青木幸右衛門倚山
青梅市日向和田 石川五兵衛素鳥
所沢市所沢 斎藤平蔵和石
所沢市所沢 三上いし
所沢市所沢 井関とみ
所沢市上新井 森田清蔵
相模原市田名 木下文吾秋花
不明 八雲斎久礼美都(伴主弟ヵ)
不明 関雲斎午睡(伴主弟ヵ)
『袁中郎流挿花図会続編四』により作成。

 伴主が関戸村に戻ってからは、付近の徚雲斎門弟であった者も、相弟子である伴主の指導を受けたと思われる。
 この頃、関戸村から約一里北の府中宿に四人部屋という小さな旅籠があった。主人の野村六郎右衛門は服部仲英の門弟で、瓜州と号し、詩文で江戸の文化人の間にもよく知られていた。瓜州は文化八年、七六歳で没したがその後まもなく四人部屋で「松羅園の集い」が開かれるようになった。『万葉用字格』の著者で関戸村延命寺住持であった春登の「松羅園会集いちかいの詞」によると、集まる者は誰の弟子、誰の友達という区別なく、和歌であれ、漢詩であれ作って楽しみ、また絵筆にまかせて知らない海山の景色を写し、あるいは狂歌を誦し、発句をひねりだし、誰も彼も好きな道に興じよう、という大変自由な集まりであった。六所宮神主猿渡盛章、番場宿の矢島忠兵衛、小野宮の内藤重喬、谷保村の本田昆斎など、江戸にも名を知られた人々が率先参会したことは想像に難くない。もちろん、関戸村の春登、五流・伴主父子も例外ではない。この集いが機縁となって、府中宿およびその周辺に、徚雲斎の門弟は増加していったことであろう。落合の小山晶家に挿花会の案内状が残っている。刷物で「袁中郎流挿花会 来三月五日於府中宿吾妻楼、晴雨共興業、冀諸君の来駕乞。戌年催主潭雲斎伴主 補助惣社中」とある。戌年は文化十四年のことと思われる。場所の吾妻楼とは飯盛旅籠東屋のことであって、その主人鉄五郎は後に允中流の門弟として登場する。刷物であるから相当多数の人に発送されたものと思われ、『図会』刊行後の潭雲斎伴主の活動がうかがえる。
 袁中郎流は後の允中流の技法的基礎をなすものとして重要であり、また「潭雲斎登毛奴之撰」の『図会』刊行は、多摩郡の生花の出発点として記憶されるべきであろう。