伴主の允中流創始

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伴主が允中流を創始したのは、『流儀開闢之釈』によれば、文政十年(一八二七)、六〇歳の時であった。花号も潭雲斎より嗜山楼と改めた。流名の由来については、『允中瓶花書』に「から(唐)やまと(大和)の中をとり、また雅俗の中をとりて、我挿処の瓶花を自ら允中と名づけたるハ論語に允執厥中(尭曰篇)といふ中の二字をとり用るのミ」と記している。具体的には、袁中郎流の技法を継承したものであるが、同流を含めて江戸の生花一般が雅をもっぱらにして、俗事の花をないがしろにする傾向に対する反省であった。後述する『允中挿花鑑』に「挿花にこころざしあらば、唐山の書をもよみて拠とし、亦吾国の古書にならいて俗用の禁忌を謹守、こころを正して雅趣を施し、他のためには俗事の用をつとめて俗におちいらず、かたよらぬが風雅なるべし」とし、さらに「屋中の荘厳にして賓客饗応の設とし、或は賀莚吉事諸の礼式等にそなふるときは詠(風雅の道)を他にゆずり、其事を祝しことふくためにする俗用なれば、諸の吉事其外種々の礼式等の花迄悉忌嫌有、是は我が国の故実、私事にて風雅の上には用なき事なりといへども、他のために花挿ときは俗事ながらも其事を詳にわきまへされば用をなさず、然ば其事ミだりにせず恐つゝしみて夫に随、俗用をつとめて俗におちいらぬが風雅なるべし」と、故実禁忌の尊重と俗事の花にも風雅が存在することを強調している。これは、挿花を遊芸とするものの、俗用の必要性を求めていた地方農村の現状に即して、雅俗併用の立場をとったとみるべきであろう。
 この頃、伴主は「ちかごろ世をのがれて隠室をむすぶに、庭のおもてには曲造ぬ松を栽ること百本ばかり、そのかげに住故に家を又松陰小舎とも名付、背面左右三方に草花花木二百余種をうへて四時月々花の絶えることなく、是を翫て気を養にたれり。故に予舎に在ときは挿花に手を下さず」とあるように、隠逸生活に徹底していたが、挿花教授にあたっては、これと背馳して雅俗併用を説いたのは、名主の経験を通じて地方農村の事情に精通していたためであろう。
 創流後一四年目の天保十二年(一八四一)、七四歳の時に『允中挿花鑑』(以下、『挿花鑑』)乾坤(けんこん)二冊を刊行した。通し丁数の袋綴じ、縦三四・八センチ、横二五センチの大型本である。これには天地人に分かれた後刷本があるという。書肆は求古堂松崎半造である。
 序文は、関戸村南方約三里の上小山田村出身の小山田与清(一七八三~一八四七)の手になる。与清は村田春海の高弟で、化政期には平田篤胤、伴信友とともに国学の三大家と称された。文政二年、華頂山尊如法親王の江戸留学の折、国学の講義に召された。序文に華長殿の倭学士とあるのは、このためである。天保二年には水戸藩の史館に出仕し、大日本史の編纂に従事した。養家の通船問屋高田屋は富裕であったので、その蔵書は五万巻に及び、当時江戸随一といわれた。著書には「擁書楼日記」、『擁書漫筆』、『松屋筆記』、『松屋棟梁集』その他多数がある。彼は考証学に秀でて、『挿花鑑』の序文でもいけばなの発生よりその沿革を述べ、ついで「諸芸捨べきものなし。されど嗜好にすぐれば家を傾るに至る。諸道忌べきものなし。されど固執に引るれば身を凶すに至る」と、生花をはじめ遊びにのめりこむ傾向にあった当時の遊芸を戒めている。
 允中流は、技法的には袁中郎流の踏襲であったが、他流派をよく研究したことが随所にみられ、ことに吉弔の花についてはその博捜の跡がうかがえる。また、永年挿花に携わっていたので聞くべき意見も多い。例えば、「挿花は己が気を養手前用にするものにて、他にミするためにするものにあらず」「挿花は草木の枝をとりてさす迄のことなれば、至ってやすきことなりとおもふべからず。人の手もて天にかはるものなればなり」「譬(たとえ)上手ならずとも、生涯すてず楽が実の風雅なり」「修業することの限りなきをいふは、及たけ広く便になるべき書を読、又道行くついでにも野山の草木にも心をとめて本性を察しなば、生涯修行はつきぬべからず」等、一見平凡であるが、年輪の深さを感じさせる芸道論を展開している。
 また、『瓶史』の監戒にならって、心持よいものと悪いものとを挙げている。その中で農村的なものを抜いてみる。前者は「野夫草の方言を知る」、「小鳥庭木に馴来る」、「貧家に種々の花を植る」であり、後者では「分限を過ぎてもてなす」、「障子のやぶれ」、「客有席にて奴婢を叱る」等である。これらによっても、いかに伴主が農村的挿花を志向していたか、その一端がうかがえよう。
 『挿花鑑』の花図は伴主自身の筆になる。「画わざなければ筆拙くミくるしゝ」と謙遜しているが、画家五流の子だけあってさすがの出来ばえである。即時にうつしとったもので、その地名、年月日までしるし「一枝一葉たりとも増減することなし。然ども前後へ指枝は真にうつしとることかたし。後にさす枝はすこし脇へふれて図したれば、ミる人察たまふべし。亦留ながしの枝の前に長く指たるは、横へふれて図すれば花形をそこなふ故、前へ出し図したれは、瓶口を過くだるがことくミゆれども、さにあらず。渾留の枝前へ長く指たるを瓶ちかく坐してミれば、瓶口を過下てミゆ、そのおもむきをうつしとるなり」として、挿花の専門家ならではの配慮が加えられている。このようにして写しとられた花図は三〇〇余点に及んだといわれるが、『挿花鑑』に所載されたのは二〇二点であった。
 允中流の免許は、初伝、臨時之式、託歌之口訣、構勒之弁、秘奥の五段階にわけられていた。山楼号は、袁中郎流の雲斎号と同じく、秘奥の段階で授けられた。この五段階にどのくらいの期間を要したかを、梧山楼和平小島増吉の場合にみてみよう。天保元年二九歳で初伝、同五年三三歳で臨席の式、託歌之口訣、構勒之弁の三段階、同九年三七歳で秘奥を許されている。山楼号を得るまで九年を要した。各免許の謝礼は不明である。なお、梧山楼と金井村(町田市)井山楼梧岳神藏賢治郎、大蔵村(町田市)花山楼五衣加藤直治郎は門弟をとっている。師範免許制度があったかどうか問題が残るが、資料がないので不明である。
 『挿花鑑』刊行資金についての詳細は不明であるが、大部分を負担したのは花図所載の門弟であることが当然考えられる。先述したとおり、花図二〇二点について実人員一一一名で、一人一二点を最高に、数点所載された門弟が多いことはこのことを裏書するものであろう。また、花図を所載されなかった門弟たちも、「はな」として若干の助成をしていたことが、『鈴木平九郎公私日記』にうかがわれる。
 この間、伴主七〇賀と八〇賀が盛大に行われた。天保九年(一八三八)十一月六日、古稀の賀筵が、允中流の有力門弟である府中田中三四郎の屋敷で催された。その案内状(富澤政宏家伝来文書)には、伴主の流麗な筆使いが見られる。
 七そちの賀
四方の諸君子賀筵につとひ玉ひ花を挿し詩を賦し哥をよみ発句をもてよはひも祝し玉はらんことを希のミ

                    嗜山楼 ともぬし
                         (後略)
当日の発句の判者として宝雪庵草宇などを招くとし、補助として、発句、和歌などの文芸に榎戸村(国分寺市)逃水亭はじめ一一名を挙げ、挿花は平村(日野市)竹山楼茗賞はじめ一〇名の山楼号所持者を並べている。
 八〇賀は弘化四年(一八四七)盛況裡に行なわれたことが、『富澤家日記』(〈史〉富澤政宏家伝来文書)からうかがえる。
「九月五日 相澤ともぬし八十賀いたし候ニ付府中信州や九兵衛方江出張花活ル」
「同 六日 金壱両延(筵)寿賀としてともぬし江遣ス 終日花世話致候」
「同 七日 花引払 近江やニ而ともぬしより格別骨折候ニ付礼として酒肴抔(など)出す 夕方引取」

引用文中、「信州や九兵衛」とあるのは、府中三町のうち番場宿の矢島九兵衛で年寄役、当時宿屋をやっていた。その三四軒西の信州やは、矢島次郎左衛門午之助といい、名主で、やはり宿屋をやっていたものと思える。こうした賀筵に挿花会が催されるのも、伴主の日常の努力によるものであった。
 允中流は地方花道とはいえ、雅俗折衷が農民の間に迎えいれられ、『挿花鑑』刊行にまで発展した。しかも『挿花鑑』は、その内容・体裁といい、江戸の花道書にひけをとらないばかりか、凌駕さえしていることは、伴主以下門弟たちの趣味ならず、実生活の高さを証明するものであった。