『挿花鑑』による門弟たちは、三多摩を南北に縦断して、その周辺は、北は所沢市、南は相模原市・厚木市・川崎市・横浜市と、武蔵・相模に分布している(図6-42・表6-39)。門弟全ての調査は不十分だが、大半が村役人層である。村役人というよりは、在方商人または農間余業によって土地の集積に成功した人たちといった方が適切なようである。『図会』から『挿花鑑』刊行に至る約三〇年たらずの間に、農間余業の発展はめざましいものがあった。このことは、文化二年(一八〇五)に設置された関東取締出役の制度が、文政十年(一八二七)の改革により農間余業、すなわち在方商工業に取締が加えられていることによっても推察されるであろう。また、この時期における都市の特権商人に対する在方商人の台頭には特記すべきものがあった。天保五年の武州橘樹郡稲毛領、ならびに府中領五六か村が江戸の肥料問屋を相手取った「干鰯〆粕買請ニ付難渋出入訴状」には、「殊相手之内治右衛門申聞候者、既ニ武州多摩郡府中宿三四郎抔者当春中より浦々江直買ニ罷出候間差押候旨申之、縦令何方之浦々ニ而買請候共直買ニ候得者何方迄茂差障候旨申之」とあるように、在方商人と江戸問屋商人はきびしい対立状態にあった。文中の三四郎というのは允中流の門弟の田中柏樹である。このような激しい時代を泳ぎぬけ、また次の変動に身構えていたのが大半の門弟たちの生活であった。それだけに、遊芸の享受が求められ、地方花道である允中流を成立させた原因の一つとなったのである。
図6―42 允中流門弟分布図
「允中挿花鑑」(小山晶家文書)より作成
現市町村名 | 宿村名 | 氏名 | 花号 | 掲載花図制作年次 | 掲載花図点数 | 備考 |
所沢市 | 野老沢 | 三上半次郎 | 巣谷 | 天2 | 一 | |
同 里衣 | 天4 | 一 | 八一歳 | |||
同 俊 | 天4 | 一 | ||||
同 りつ | 天8 | 一 | ||||
同 勘吉 | 佳年 | 天2 | 一 | |||
青梅市 | 青梅町 | 田中八百右衛門 | 一有 | 天2・4・7・11 | 四 | |
榎本栄蔵 | 鐘山楼歌笠 | 天2・4・11 | 四 | |||
奥野与三郎 | 緑山楼闘雅 | 天7・10・11 | 六 | |||
同 米三郎 | 沙月 | 天11 | 三 | |||
同 もと | 天12 | 一 | ||||
川島大次郎 | 帯雨 | 天11 | 一 | |||
榎本甫助 | 志解見 | 天12 | 三 | |||
北島太三郎 | 朝花 | 天11 | 一 | |||
千賀瀬 | 橋本伴蔵 | 湛露 | 天5・11・12 | 四 | ||
勝沼 | 斎藤勝之助 | 天11 | 一 | 一三歳 少年 | ||
羽村市 | 羽村 | 坂本小源太 | 千春 | 天2 | 一 | |
同 安治郎 | ひろちか | 天3 | 一 | |||
武蔵村山市 | 村山 | 波多野文右衛門 | 峻山楼蹶躄 | 文10・天6 | 三 | |
同 源八 | 嵩山楼経明 | 文10・天10 | 二 | |||
小平市 | 小川 | 小川東太 | 杏斎 | 天12 | 一 | |
立川市 | 砂川 | 岡部忠右衛門 | 花友 | 天10 | 一 | |
村野源五右衛門 | 好山楼楽水 | 天10・11・12 | 四 | 後に砂川と改姓 | ||
国分寺市 | 榎戸新田 | 榎戸源蔵 | 芙山楼如雲 | 天8・9・10・11 | 五 | |
同 元治郎 | 嗜聖 | 天11 | 二 | |||
中藤新田 | 中藤彌市 | 天5 | 一 | |||
高橋清八 | 天7 | 一 | ||||
調布市 | 深大寺 | 富澤忠治郎 | 桃遊 | 天12 | 一 | |
府中市 | 人見 | 鈴木清左衛門 | 静山 | 天7 | 一 | |
押立 | 川崎平蔵 | 絲長 | 天5・11・12 | 三 | ||
同 邦太郎 | 天11 | 一 | ||||
同 平左衛門 | 歩月 | 天11 | 二 | |||
府中宿 | 矢部甚五左衛門 | 精草 | 文10 | 一 | ||
鹿島田但馬 | 蘭水 | 天3・11 | 二 | |||
田中忠治郎 | 柏山楼馬的 | 天5・11 | 二 | |||
高橋覚右衛門 | 清秀 | 天11 | 一 | |||
鉄五郎 | 天11 | 一 | ||||
矢島午之助 | 天11 | 一 | ||||
神山平治郎 | 菊奴 | 天11 | 一 | |||
岩崎茂八 | 探山楼蓑笠 | 天11 | 一 | |||
田中三四郎 | 柏樹 | 天11 | 二 | |||
門善房快円 | 天12 | 一 | ||||
稲城市 | 長沼 | 森平蔵 | 圭山楼月人 | 天2・9・11 | 五 | |
同平作 | 天11 | 一 | 一一歳 少年 | |||
大河原与蔵 | 梅心 | 天10・11 | 四 | |||
同 惣治郎 | 梅露 | 天11 | 二 | |||
同 まつ | 天11 | 一 | 九歳 少女 | |||
多摩市 | 連光寺 | 富澤惣左衛門 | 月臼 | 文13 | 一 | |
関戸 | 相澤源次郎 | 梅三 | 文13・天2・10 | 三 | ||
梅七 | 文1 | 一 | ||||
春亮 | 鳳山楼 | 天4・11・12 | 四 | |||
相澤也三 | 天9・11 | 二 | ||||
井上忠三郎 | 天10 | 一 | ||||
同 とも | 天11 | 一 | ||||
乞田 | 有山文平 | 政甫 | 天4 | 一 | ||
吉祥院 | 大英 | 天11・12 | 二 | |||
落合 | 小山源右衛門 | 高山楼社長 | 天10 | 一 | ||
多摩市 | 落合 | 小山源内 | 山鳥 | 天11 | 一 | |
寺澤喜惣治 | 喜勇 | 文11 | 一 | |||
日野市 | 平 | 平魯輔 | 竹山楼茗賞 | 天2・11 | 二 | |
八王子市 | 川原宿 | 山口安五郎 | 梅佳 | 天3 | 一 | |
町田市 | 小野路 | 小島増吉 | 梧山楼和平 | 文13・天11・12 | 三 | |
橋本彌助 | 柳外 | 天11 | 一 | |||
萩生田九郎兵衛 | 富広 | 天11 | 一 | |||
木曾 | 石川段助 | 直枝 | 天3 | 一 | ||
覚円坊 | 君雄 | 天9 | 一 | |||
大蔵 | 加藤三治郎 | 南山楼三甫 | 文13 | 一 | ||
中溝忠之助 | 紫中 | 天11 | 一 | 井山楼門弟 | ||
加藤直治郎 | 花山楼五友 | 天12 | 一 | 花山楼門弟 | ||
井上豊郎 | 天12 | 一 | 同 門弟 | |||
安全寺 | 一笑 | 天12 | 一 | |||
野津田 | 村野幾吉 | 印子 | 天2 | 一 | ||
金井 | 神倉賢治郎 | 井山楼梧岳 | 天2・6・11・12 | 四 | ||
同 甚八 | 暁鳥 | 天11 | 一 | 井山楼門弟 | ||
市川権右衛門 | 天11 | 一 | 同 門弟 | |||
草薙猶治郎 | 猶司 | 天2 | 一 | |||
同 石治郎 | 紫石 | 天11 | 一 | |||
山崎 | 鑓溝富治郎 | 梧風 | 天7 | 一 | 梧山楼門弟・少年 | |
渋谷音八 | 梧井 | 天8 | 一 | 同 門弟 | ||
坂倉諫助 | 梧珪 | 天9 | 一 | 同 門弟 | ||
高梨彌兵衛 | 天10 | 一 | 同 門弟 | |||
渋谷栄太郎 | 梧翠 | 天10 | 一 | 同 門弟 | ||
本町田 | 大澤助右衛門 | 湖水 | 天2 | 一 | ||
小林三右衛門 | 山石 | 天9 | 一 | |||
川崎市 | 片平 | 安藤助治郎 | 梧窓 | 天5 | 一 | 梧山楼門弟 |
夏蒐山 | 臥雲 | 天11 | 一 | 花山楼門弟 | ||
上麻生 | 鈴木辰五郎 | 梧生 | 天10 | 一 | 梧山楼門弟 | |
川崎市 | 岡上 | 梶敬助 | 圭甫 | 天10 | 一 | 井山楼門弟 |
横浜市 | 恩田 | 土志田半兵衛 | 旭山楼雪朗 | 天5・8・9・10・11 | 一二 | |
同 岡右衛門 | 玉枝 | 天11 | 一 | |||
同 三作 | 天11 | 二 | 九歳 少年 | |||
同 幸治郎 | 蔵鳥 | 天11 | 三 | |||
福昌寺 | 月浦 | 天11 | 三 | |||
万福寺 | 志山 | 天11 | 四 | |||
鈴木権蔵 | 知山 | 天11 | 二 | |||
田中昌治郎 | 鴻斎 | 天12 | 一 | |||
川井 | 中村種蔵 | 伏亀 | 天5・7 | 二 | ||
同 久治郎 | 千代経 | 天5 | 一 | |||
相模原市 | 淵野辺 | 龍像寺 | 泰雲 | 天11 | 一 | |
溝 | 佐藤太一 | 天11 | 一 | 少年 | ||
勝坂 | 勝源寺 | 朴巌 | 天5 | 一 | ||
中村喜右衛門 | 涅桂 | 天11 | 一 | |||
同 鉄蔵 | 月清 | 天11 | 一 | |||
磯辺 | 田所新兵衛 | 年久 | 天10 | 一 | ||
厚木市 | 山際 | 梅澤彦三郎 | 天11 | 一 | ||
東京都区部 | 相澤長四郎 | 八山楼暮三 | 天6 | 一 | ||
青地喬松 | 天2 | 一 | ||||
伊佐敬助 | 天2 | 一 | ||||
渡辺一保 | 天2 | 一 | ||||
石幡大隈 | 天2 | 一 | ||||
冷煙居 | 青蓮 | 天3 | 一 | |||
下野勇蔵 | 天5 | 一 | ||||
後藤清右衛門 | 紫纓 | 天11 | 一 |
関戸村を含む現在の多摩市域の門弟たちをまずみてみよう。山楼号を許されたものは二名である。関戸村の鳳山楼春亮は春登の弟子で、その跡を襲い延命寺住持であった。小山田与清の文政年間の日記『擁書楼日記』に散見する甲州西念寺鳳山とは、おそらく彼のことであろう。和歌では伴主の朋友であり、挿花では弟子であった。小野路村(町田市)小島守政の『慎斎文鈔』に「釈春亮伝」がある。師の春登同様、和歌をよくし、その上に挿花・茶・笛にたくみであったという。奇行に富んだ僧で、その家族をきかれても、坊主に何の族があろうと大笑したという。慎斎は『類題新竹集』で、その詠草の採られることの少ないことを惜しんでいる。
小山源右衛門(高山楼社長)は関戸村より半里ほど西南の下落合村の人であった。袁中郎流以来の門弟で、伴主が彼を別格扱いしていたことは、免許の五段階を一挙に授与していることから知られる。父兵右衛門は医師で、七五歳まで定役名主を勤め、彼は千人同心で終わっている。相澤家との交流は、五流の画が数点残っていることから、五流以来であったと思われる。その子源内山鳥は馬医で組頭を勤め、かたわら太白堂系の発句をたしなんだ。持高は、安政元年(一八五四)には五石弱だが、同四年には六石六斗余となっている。これに医師の収入を加えると二〇石前後とみられる。下落合村は山間にあって、嘉永七年には七石余が最高位となっている。
同村寺澤喜惣治喜勇は、袁中郎流時代の門弟、伝治郎の子である。父伝治郎は小山兵右衛門の跡を受けて定役名主、子喜惣治は年番名主であった。喜惣治は沢花堂、後に桃街庵と号し、小山源内山鳥とともに太白堂系の俳人で落合連のリーダーであった。同家は油絞り、木灰造りなどをやっており、屋号を油屋と称した。嘉永七年の持高は七石五斗余で村内第一位であり、文久元年(一八六一)には八石七斗余となった。
富澤惣左衛門月臼は、袁中郎流時代の門弟、惣左衛門有台の子であった。世襲名主富澤家の分家で、連光寺村の東南に広がる原野の薪によって産をなした。地頭天野氏の家計逼迫によって、父は連光寺村と坂浜村(稲城市)の代官役にとりたてられるとともに、本家と並んで初めて相名主となった。月臼も勝手向賄名主と、本家とともに月番で名主を勤めた。剣術は近藤周助を師とし、天然理心流三代目の門弟であった。また、大田南畝の『向岡閑話』および『玉川披砂』に紹介されている調布臼の所持者としても知られている。持高は天保十四年に三〇石余、明治三年(一八七〇)に出作地九二石余で、多摩郡でも有数の高持であった。
図6―43 「允中流挿花鑑」より挿図二点
府中宿は、関戸村より北方一里ほどの甲州道中の宿場であった。府中三町といわれ、本町、番場宿、新宿とわかれていた。『図会』刊行時には全く門弟はなかった。これは正風遠州流の門弟が五名ほどあったといわれ、そのためであろう。先述した松羅園の集いを機として袁中郎流の門弟ができ、それらの人たちが允中流に移行したものであろう。宿場らしい変化にとんだ門弟構成である。山楼所持者は二名である。田中忠治郎(柏山楼馬的)は、屋号を柏屋といい、先述した干鰯買付けに活躍した三四郎柏樹の子であろう。同家は車返村(府中市白糸台)より新宿に移って三代目にすぎない天明三年(一七八三)には、すでに六五石余の高持となり、その後も府中随一の裕福な在方商人であった。くだって明治十年代には、度々明治天皇の行在所となったことは有名である。なお三四郎柏樹は天然理心流三代周助の有力な門弟であって、「武術英名録」にも名をつらねている。岩崎茂八(探山楼蓑笠)については、番場宿の屋号板屋の当主であるか、新宿の年番名主岩崎彦兵衛家の者であるのかは不明である。鹿島田但馬蘭水は六所宮の社家で、五流の画の師である関良雪の実家である。高橋覚右衛門清秀は番場宿の年寄である。矢島午之助は番場宿の名主兼府中宿本陣を勤めていた。矢部甚五左衛門精草は番場宿の年寄で、松本屋という府中宿屈指の旅籠の主人であった。『甲州道中商家名録』によると、「玉川鮎之糀潰」を売出していた。門善房快円は本山派(聖護院)の山伏で、霞下は遠く現在の荻窪、東大和市に及ぶ有力な修験者であった。伴主の出張稽古の折はその家を会場とした。また、天然理心流のこの地域の筆頭門人であり、「武術英名録」にその名が掲載されている。神山平治郎は、内藤新田(国分寺市)より新宿に移ってきた医師である。鉄五郎は新宿飯盛旅籠の草分けである東屋の主人で、府中宿飯盛旅籠の仕切役であった。袁中郎流時代に伴主の挿花会の会場になったことは先述したとおりである。
小野路村は、関戸村の南方二里、近世初期までは鎌倉街道の宿駅として栄えた地である。その後、甲州道中の脇往還として大山参りの客が宿泊する程度の宿場であった。ここに、伴主亡き跡の允中流の立役者的存在であった小島増吉(梧山楼和平)がいる。彼は角左衛門政則といい、天保十二年に地頭山口氏より名主役を仰せ付けられるとともに、小野路寄場組合の寄場名主となった。屋号を油屋といい、油絞りをやっていたというが、彼の代には質店であった。父の勘助政敏は、小山田与清に学び、相弟子の猿渡盛章とは親交があり、先述した『類題新竹集』にも故人としてその詠草が収録されている。その子鹿之助は、詩文を遠山雲如に学び、また剣術は近藤周助の指南を受け、その養子勇と義兄弟であったことは有名である。小島家は代々文化人がつづき、現在小島資料館に至っている。持高は、明治三年に六八石余、明治十年代の地券によると、田四町七反余、畑一五町七反余、山林四四町五反余、萱野、藪、宅地二町二反余、合計六七町二反余であった。これは、農間余業による質地地主としての成果であった。梧山楼和平は先述したように門弟六名をもっていた。
関戸村より三里程東南の金井村(町田市金井)に、神藏(倉)賢治郎井山楼梧岳がいる。神藏家は金井村の世襲名主で、寛政年間に神谷氏知行四か村の代官役を勤めたので、〝お代官〟と呼ばれた。父令輔邨教は伴主の弟で、のちに華(花)嶽と号し、法眼位をもつ画師である。賢治郎の妻は、恩田村(横浜市緑区)の土志田半兵衛(旭山楼雪朗)の娘であったので、横浜市方面への允中流進出は、この二人に負うところが多かったと思える。なお、土志田半兵衛は俳諧の宝雪庵の高弟で、恩田村から金井村などにかけての千鳥連のリーダーであった。
酒造りは油絞り・質店とともに富農の指標とされるが、醸造設備、杜氏の雇用などの最も資本を要するものであった。その上、米穀を利用するものであったから幕府の強い規制が加えられ、酒造株というものが固定するに至った。凶作によってしばしば減石令が出され、経営が安定しなかったため、近世後期には酒造株を他人に貸与して蔵敷料をとる貸蔵が一般的になったようである。現在府中市大国魂神社境内の摂社松尾神社は、酒神として寛政十三年(一八〇一)に京都から勧請されたものである。その石鳥居は文化四年の建立で、「上石原村玉蔵頭願主新助 世話人下染谷村紀伊国屋蔵忠左衛門・同村粕屋蔵彦四郎・長沼村角屋蔵茂八・小田分村平野屋半六・府中宿玉屋蔵茂七・押立村日野屋蔵安兵衛・菅生村玉川蔵幾右衛門・宇奈根村酒屋蔵作兵衛・登戸村福田屋与助」と刻まれている。これらの人たちの大半は、酒造株をもつ者ではなく、酒造稼人と思われる。天保八年の「商売仕候者書上帳」に「武州多摩郡押立村名主平左衛門店借 一酒造商売仕候去ル文政五年午ヨリ右平左衛門同居渡世仕候処当酉三月ヨリ同人店借受自分稼仕候八郎兵衛但し松平大和守様御領分武州入間郡上留村組頭平兵衛店借り江州日野新町八左衛門見世ニ御座候」とあり、平左衛門は酒造株はもっていたが、江州日野の八左衛門に貸蔵をしていたので日野屋敷といわれたことが知られる。鳥居の建立者の一人安兵衛は、文書の八郎兵衛の前任者と解することができよう。このように貸蔵を営んでいた者に、前記の押立村(府中市押立)日野屋敷の川崎平左衛門歩月がある。そのほか、どのような経営法をとっていたかわからないが、酒造りに、長沼村(稲城市長沼)の大河原梅心、所沢村(所沢市)の三上半次郎巣谷、村山村(武蔵村山市)の波多野文右衛門(峻山楼蹶躄)、平村(日野市)の平魯輔(竹山楼茗賞)がいる。前記三上半次郎は米穀、馬継の問屋も営んでおり、関八州長者番付に名をつらねている豪商であった。
俳人として知られる者に、三上半次郎の母里衣、俳号野遊庵理恵と、青梅の榎本栄蔵(鐘山楼歌笠)、俳号雙袖庵歌笠がいる。また羽村の坂本小源太千春は、剣術を天然理心流二代の三助より指南を受け、目録位を得、同時に和歌をたしなみ『類題新竹集』にその詠草が収められている。のちに江戸に出て囲碁の名人井上因碩より免許を受けた。
允中流の門弟には、前記の三上里衣以下六名の女性がいる。生花が男性のものであった時代、とくに地方農村においては特筆すべきことであった。
伴主の教授法は、近隣を除いては出張稽古によっていたことが『挿花鑑』によって知ることができる。『調布玉川惣畫圖 全』も、青梅地方への出張稽古の折の副産物とみることができる。表6-39に「允中流門弟一覧」を掲げておく。
通常、文化の伝播は商品流通網に依存するといわれているが、允中流の場合は、父五流の画についての理解者を基盤に、その上に血縁、地縁によって流布したとみるのが至当のようである。『挿花鑑』刊行以後隆盛は若干伸張したものと思われるが、右の制約によって大いなる発展は望めなかったようである。それとともに、余程の富裕者でもなければ、余暇を楽しむことが罪悪視された当時の農村における時代相が、大きく反映したものと思われる。
なお、多摩郡最大の宿場八王子への進出がなかったことは、師の徚雲斎の持ち場に近かったのと、他流派がはいっていたのではなかろうか。明治期に峯雲斎および徚雲斎名跡の復活が同地において行われている。