伴主は、嘉永二年(一八四九)十二月二日、八十二歳をもって没した。これを追うように伴主のよき理解者であった延命寺の鳳山楼春亮も、同四年五月二十九日に没し、両名のための追善挿花会が十一月二十七日に催された。その直前の十六日には袁中郎流以来の門弟であった小山源右衛門社長が没している。嘉永六年の黒船来航を前に、この三人が相次いで没したことは象徴的であり、古きよき時代、多芸多趣味の文化人、いわゆる文人の時代の終焉を告げるかのようであった。
その後、允中流は嗣子源次郎―大野某の師系があり、また追善挿花会の案内状に名をつらねた小島増吉ら一二名を中心に、しばらくは命脈を保ったものと思われるが、維新動乱の荒波に没して、再び浮上することはなかった。
原因としては次の諸点が考えられよう。一は、伴主は農村の実情に即して雅俗折衷を主張したが、それはかえって立派な住居をもつ富裕層を対象とする結果となったこと。二は、伴主は「予家に在ときは挿花に手を下さず」とあるように隠逸趣味に徹し、流勢発展にあまり熱意を示さなかったこと。三は、門弟たちはいわゆる旦那芸に終始し、允中流を継承してゆく意欲をもたなかったこと、四は、女性が生花に参加する基盤が地方農村にはなかったことである。江戸の生花が維新後は一次息をひそめていたものの、再び女性の遊芸として復活したのと対照的である。ここに地方生花の限界性があったというべきであろう。
また、生花とほとんど時を同じくして多摩の地に入ってきたものに、行動的遊芸ともいうべき剣術、天然理心流があった。初代近藤内蔵之助、二代三助の時代には千人同心が中心であったが、三代周助に至り日野宿・府中宿・小野路宿周辺の一般農民の間に流布するようになった。これは周助一人に限らず、同時代の増田蔵六、桑原栄介、松崎正作・和多五郎父子、漆原権左衛門らによって多摩郡の大半及び相州の各地にまで普及していった。そして、明治期には自由民権運動のエネルギー源となり、同二十八年(一八九五)武道の総合団体である武徳会の誕生にかかわらず、大正年間まで井上歳市、楠正重、近藤勇五郎、原田亀蔵らによって存続したのである。近世においては自己解放の場は遊芸をおいてなかったといわれる。農民の剣術はもともと自衛を目的とするものの、より多く自己解放の場を剣術に求めたものであった。同じ遊芸でありながら、なぜ維新の動乱に一方は消え、一方は生きながらえたのであろうか。生花は最も権力に抵触することのない遊芸の一つであり、そのうえ、允中流は袁中流になかった忠孝倫理を説いて、きわめて体制的であった。それに反し、農民の剣術は本来武士の表芸であっただけに、常に身分制度に抵触する反体制的なものであった。事実いくたびか農民の剣術禁止令が出されるが、その剣術熱、すなわち自己解放の意識を押えることはできなかった。結局は意識の強いものが生き残ったのと、剣術は男性のものであり、生花は必ずしもそうでなかった二点が、後者の衰滅を結果づけたといえよう。
允中流の唯一の遺産というべきものに、農村における花卉栽培が挙げられよう。「賞翫の花は当季に限るべし」とし、花材を手近に求めることを奨めるとともに、自身庭に二百余種の花卉を植えて楽しんでいた伴主の日常生活は、門弟たちの間にそれに倣うことを促したことは想像に難くない。一例を挙げると『挿花鑑』に「アラセイトウ天保十一子歳四月十三日於大河原氏之別荘挿之 武押立邑 川崎邦太郎」とある。アラセイトウとはストックのことで、正徳三年(一七一三)刊行の百科事典というべき『和漢三才図会』に初めて出てくる花である。下部が直線的であるため花材に向かないので、これがおそらく作例として最初のものであろう。草花のことであり、江戸から購求することは考えられず、作者は自家栽培のものを使用したのであろう。作者の邦太郎は、農民から代官に起用された川崎平右衛門の直系で、伴主には外孫に当たる。天保年間の多摩郡に南欧原産の花が栽培されていたことは、伴主の感化によるものであろう。この花卉栽培が明治期における農村の色彩多様化に寄与したことは確かである。一つの文化が消滅しても、その遺響は意外なところに現出するものである。
袁中郎流より派生し、武州多摩郡という一地方の花道として出発した允中流は、男性の遊芸より女性のそれへの転換過程において消滅した。当時の地方農村の社会的、経済的条件において当然のことであったといえようが、伴主をはじめ門弟たちの「質から量」への文化の達成は、決して忘れることのできない。自由民権期に、中央の理論を多摩の人たちはいち早く自分のものにして行動したのと軌を一にしているといえるであろう。そこには模倣もあったろうが、独創もあった。その意味で允中流は遊芸ではあったが、先蹤として高く評価されよう。