近世の俳諧は、中世の連歌から派生した連句と、連句の第一句が独立した発句から成り立っていたといえよう。
連句は俳言すなわち日常語を駆使した機知的なもので、連歌同様五七五の長句と七七の短句を、複数の人によってくりかえされる文芸であった。一方、発句は連句の第一句であり、季語や「や」・「かな」の切字を具えることが必須条件とされる、極めて独立性の強いものであった。そして、俳諧の盛行につれて、次第に単独で詠作・鑑賞されるようになり、立句と地発句の用語を生んだ。立句は連句の第一句のことであり、地発句とは連句を伴なわない独立した発句を指すようになった。
連句は付合すなわち句を付け合わせるに難しい約束事があるため、俳諧を職業とする宗匠や一部の発諧熟練者のものとなっていった。一方、発句は季語と切字の修得という簡単な条件があるのみであったので、一般大衆の間に浸透していった。これに加えて、文政から天保年間にかけて「月並発句」という大衆的興行様式が出現・普及し、一般大衆の読み書きの普及と相俟ち、俳諧といえば発句の時代を招来した。
発句は、文政から嘉永年間、市域を挙げて傾倒した「月並発句」を中心に、これに先行する時代を市域の発句前史と位置付けて述べていく。
まず、近世後期の江戸俳壇の勢力分布を一瞥すると、芭蕉俳諧の継承を標榜する嵐雪系、杉風系、桃隣系と素堂系、それに支考の美濃派、乙由の伊勢派が加わっている。これに対し、点取俳諧と呼ばれ、遊戯的であった江戸座の談林系、其角系、治徳系などがあった。このうち市域に関係の深いのは、前史では、関戸村の相澤五流らが師事した加舎白雄、その門下の女流俳人榎本星布で、伊勢派である。「月並発句」時代では、芭蕉の甥であった加藤桃隣を祖とする太白堂系、芭蕉の高弟服部嵐雪に師事した咫尺斎大場寥和の流れを汲む宝雪庵系である。なお、市域に近い甲州道中府中宿には嵐雪直系の雪中庵の進出が見られる。