加舎白雄(一七八三~一七九一)の俳系は、芭蕉の門人岩田涼菟―麦林舎乙由―佐久間柳居―白井鳥酔―松露庵烏明である。白雄は初め烏明に師事したが飽き足らず、直接鳥酔の教えを受けた。この系統は伊勢の神職といわれる涼菟に始まり、鳥酔の頃には毎年正月に刊行する歳旦帳に名を連ねる者が四百名に及んだといわれた(小林義一「松原庵星布覚書(上)」『多摩のあゆみ』七一)。白雄は安永九年(一七八〇)に日本橋鉄砲町の借家に入り、かつて師の鳥酔の号した庵号を継いで春秋庵を開いた。江戸を中心とした関東一帯は勿論、信州は父祖の地で信奉者が多く、他に伊勢、奥羽にも勢力が及んだといわれる。とくに門弟にめぐまれ、春鴻、長翠、道彦、巣兆、天姥、葛三、冥々、星布らがいた。
白雄およびその門下の編集した発句集に、市域俳人の入集した句は次のとおりである。
○天明五年(一七八五)刊 白雄編『春秋稿第五篇 地』(『加舎白雄全集』上)
いねぬ夜を鶤鶏啼后の月 武関戸 五流
桜紅葉して春をし想ひ秋をわぶ 五流
くれちかく鳩吹て山にこたふ哉 武関戸 古月
○天明六年刊 中村伯先編『葛の葉表』(同前)
夏の部 雲湧きて谷間のわか葉蒸ごとし 武関戸 五流
秋の部 月は望猟は獲を尋るか 五流
○寛政二年(一七九〇)刊(推定) 白雄編『春のおとづれ』(同前)
春のかげ二葉の松ぞたのもしき 関戸 五流
○寛政五年刊 美濃口春鴻編『俳諧冬瓜汁』(天理大学図書館所蔵)
各詠 から櫃にきぬたのひらきをかしさよ 武関戸 五流
翌日しらぬ命めてたし菊の酒 友(伴)主
○寛政九年刊 慶山坊耕淵編『俳諧宵農春』(八王子・小林義一氏所蔵)
なつの鳥
夏のむし くれ行や人の鵜川の面白き 武府中関戸 とも主
秋の草 朝顔やおこたり多き人のうへ とも主
菊
長き夜 菊白く夜を日に継む時節哉 武府中関戸 五流
○寛政七年刊 倉田葛三編『衣更着集』(『葛三全集』)
花のかけふた葉の松そたのもしき 関戸 五流
○寛政七年刊 倉田葛三編『春秋稿 第六篇』(同前)
雨の日の菊にものいふ聖かな 関戸 梅枝
梓きく宵をそゝろにふゆの月 武関戸 五惇
寒月や水なき神の手水鉢 同 友主
○寛政八年刊 倉田葛三編『春秋稿 篇次外 体・鬼』(同前)
体
汐干
白魚 汐さきや嶋は雨降春干潟 武関戸 五流
鬼
月 月に添て捲尽したる簾かな 武関戸 友主
彼是もなくて世の中雨の月 武関戸 五流
○文化八年(一八一一)刊 倉田葛三編『さくら念仏』(同前)
四時混題 朝の蚊や秋海棠の方へ飛 武蔵 五流
○寛政九年刊 榎本星布編『七とせの秋』(天理大学図書館所蔵)
郭公
かんこ鳥
さミたれ たれこめしさし木の柳さミたるゝ 武関戸 五流
夏の草花
牡丹
夏の月 苅こミし秣に百合の匂ひ哉 武関戸 友主
題不分 なく虫の表過たるひとつかな 友主
○享和元年(一八〇一)刊 榎本星布編『蝶の日影』(同前)
柳 吹ふかぬ柳かもなくふかもなし 武関戸 五流
以上にみたとおり、小数の者が付かず離れずの関係で、春秋庵一門の編著に入集している。それらの編者と入集している市域俳人について簡単にふれておく。
『葛の葉表』の編者中村伯先(一七五六~一八二〇)は信州伊奈郡の医家である。天明四年(一七八四)に白雄が門弟呉水(後に春秋庵を継いだ長翠)を伴なって信州旅行をした折、芭蕉句碑「葛の葉の表見せけり今朝の霜」の揮毫を依頼されたのが師弟の始まりであった。この建碑記念に編まれたのが『葛の葉表』である。白雄は集の選句から版下まで自らしたためたという。白雄代編といわれる所以である。
白雄三回忌追善集『俳諧冬瓜汁』の編者美濃口春鴻は、相州戸塚在の下飯田村(横浜市戸塚区)の人である。はじめ白雄の師鳥酔に入門、その没後烏明に従った。安永九年(一七八〇)、白雄が春秋庵を開くと、白雄門の後見的存在となった。白雄の推薦によって、師鳥酔の庵号露柱庵を継いでいる。
白雄七回忌追善集『俳諧宵農春』の編者の慶山坊耕淵は、武州入間郡北野村(所沢市)の北野天神社大宮司栗原忠景である。父の重慶も青牛という白雄門の俳人であった。白雄は春秋庵を開いてまもなく青牛のもとを訪れている。その日はひどい雨風でようやく辿りつくと、思いもかけぬさまざまの歓待に、たちまちこの日の労苦を忘れ、「風ふかばふけ此うへは宵の春」の一句を詠んだ。これが追善集の題名となったのである(内野勝裕「春秋庵加舎白雄と県西部の俳諧」『人づくり風土記』)。のちに榎本星布編の一〇評(一〇人の選者による合評)型式の『都鳥』(寛政十一年刊)・『不ぐるま』(寛政十二年刊)に、当時の一流俳人とともに選者として名を連ねている。これは、白雄門における耕淵の確固たる位置を物語るものであろう。
倉田葛三(一七六二~一八一八)は信州松代の人で、宮本古慊の推薦により白雄の内弟子となり、のちに長翠の後を受けて第三代春秋庵主となった。また、ほぼ時を同じくして、西行にゆかりのある大磯の鴫立庵も兼庵することとなった。
女流俳人榎本星布(一七三二~一八一四)は、八王子の生まれで、同地の旧家津戸家より婿養子を迎え、一子喚之をもうけたが、明和七年(一七七〇)寡婦となり、晩年喚之にも先立たれる悲運の生涯であった。継母仙朝の影響で俳諧に親しみ、初めの師は鳥酔であったが、その没後、鳥酔の有力門弟烏明ではなく、あえて六歳年下の少壮気鋭の白雄に師事した。天明八年、白雄の推薦により松原庵を継承、寛政三年(一七九一)には還暦を迎えて剃髪した。句は白雄に倣い格調高く、江戸時代の女流俳人で随一と評される。編著には、その他に『星布尼句集』・『みどりの松』・『都鳥』・『不ぐるま』・『春山集』がある(小林義一「松原庵星布覚書」『多摩のあゆみ』七一~七三)。
五流(一七四六~一八二二)は、姓は相澤、通称を源左衛門といって、関戸村幕領の相名主であった。大田南畝の『調布日記』に記されているように、南畝とは絵師吉田蘭香のもとで旧知の間柄であった。また、法眼位をもつ狩野派の地方絵師で、その名声は多摩郡は勿論、入間郡や相州にまで及んだ。現在でもその地方に遺作が数多く残されている。天明から寛政前期は家業に従事し、かたわら絵の修業中であったと思われる。家業というのは、安永四年「差上申一札之事」(〈史〉富澤千司家伝来文書)によると、源左衛門と称して五流かその父了栄が筏師組合に加入しており、木材か松薪の輸送に従事していたことがわかる。俳諧については、春秋庵門下の木曽村(町田市)四時庵百雉の影響があったのではなかろうか。
伴主(一七六八~一八四九)は五流の長男で、天明五年に生花の袁中郎流に入門、文政十年(一八二七)には允中流を創流した。伴主の出句の大半は、江戸での生花修業時代のものであった。
古月については、『資料編二 文化・寺社』所載の文政七年以前の句合書留に出ている俳人であるが、それ以上のことは不明である。
梅枝は、文化六年(一八〇九)伴主が撰をした『袁中郎流挿花図会』に、相弟子として花図が掲載された井上林蔵のことである。井上家は相澤家とならんで関戸村幕領の相名主であった。
さて、享和二年(一八〇二)、星布選による四季に分けられた『発句集』(諏訪神社所蔵古文書集第二・三集)が成立した。この句集は合計四四一九句に及ぶ、現代の歳時記を思わせる大部のものである。殊に入集した市域俳人が多い。以下はその一部である。
連光寺 六名 計二九句
入梅 塩魚の塩かへりけりつゆかあめ 沢雉 他九句
川狩 めくる日や鵜川の末の川施餓鬼 三笑 他九句
長き日 書に倦し人や日長の仮枕 富廼屋 他三句
長き日や梓をかたる組屋鋪 月臼
暑 踏なやむ履の緒すれや日の暑き とミ女 他二句
鹿 神の火にしのひよりけり闇の鹿 汶流
落合 三名 計四四句
雁 雁鳴や月の出汐のうしろ山 如風 他一九句
踊 おくれ来て輪をひろけたる踊哉 柏舟 他一八句
葉桜 葉さくらとなりて素顔の女哉 小泉 他四句
関戸 三名 計六句
小春 ためらひて衣洗ふ日や小春和 朝四楼 他一句
柳 吹ふかぬ柳かもなく不かもなし 五流
春の山 杣か家に何か匂へる春の山 梅枝 他二句
乞田 一名 計一句
風薫 ほからかに風かほりけり日の斜 柳雪
(合計一三名 八〇句)
このうち、連光寺村の富廼屋は富澤昌徳で、同村の世襲名主であり、日野宿寄場組合の大惣代をつとめた。特に俳諧に堪能で、息子の白雉こと政恕とともに連光寺村の俳壇をリードした。沢雉は富廼屋の弟で来助といい、槻の本あるいは半閑堂と称した。文政七年府中分梅の質屋小川家の養子となり、「月並発句」の集所を兼ね、雉子連あるいは玉垣連の盟主として府中俳壇に君臨した。月臼は富澤惣左衛門といい、地頭賄名主から相役名主となった。
乞田村の柳雪は、後年鈴木文巡の「月並発句」の催主をつとめており、文巡の父が頼ってきた大貝戸(乞田村の小名)の佐伯岩治郎の後嗣と思われる。
諸句のうち、沢雉・富廼屋兄弟の月の句、小泉の鹿の句は、ともに文化五年(一八〇八)の別所村(八王子市)薬師堂奉額の句(資二文化・寺社)と同一である。なお、柏舟は後に所付は小野宮となるが、太白堂の文政五年(一八二二)の「月並句合」によるといずれも落合とあるので、この時点の所付は落合とした。
市域俳壇は、一九世紀に入ると、『発句集』にみたように、ようやく発句盛行のきざしをみることができる。星布八十歳賀集『春山集』には、わずか左の一句の入集である。
○文化八年刊 『春山集』 榎本星布編
四時混雑 芦間よりみゆる橋あり行々子 落合 三谷