「月並句合」の実態

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従来の俳諧は「宗匠対門弟」という図式が成立する、限定された関係に終始したが、化成期に考案された「月並句合」は、散紙(ちらし)の利用による不特定多数を対象とする、「宗匠対投稿者」という図式を現出し、投稿者側に複数の宗匠をえらぶ自由を与えた。加えるに、その月内に投稿の成績を知ることができる「返草」という刷物の出現は、一挙に発句人口の増大を招来した。このため発句の質を低下させたことを考慮に入れても、画期的な出来事であろう。もう一度「月並句合」をふりかえってみる必要があるのではないか。
 明治中期以来、正岡子規の「月並調」の一語をもって、閑却・抹殺されてきた「月並俳諧」=「月並句合」の実態を探ってみよう。
 発句のグループの有力者か、宗匠の内弟子かが主催者となる。これを催主あるいは発企者という。催主は賞品を呈上する範囲、及び返草に掲載する句の範囲を決め、次に選者となる宗匠に季題、締切日、開巻日を定めてもらい、それらを木板刷にした散紙を、句を集める集所を経て一般からの投句を募集する。締切日に投稿された句は集所を経て、主催者のところに集められる。主催者はみずから、または補助者を使って、これを清書し宗匠の手元へ廻す。宗匠は所定の採点をし、開巻日に成績発表をする。それとともに、主催者は発表された結果と、天保初年以来「月並句合」に付随して行われるようになった「当日兼題句合」の成績を木版刷りにし、集所を経て投稿者の手元に返す。これを返草という。以上の手続を一か月以内に終了し、毎月これを繰り返すので「月並」という。この間、宗匠の経済的理由か、投句者側の希望によって、寺社への奉額・奉灯、料亭、茶亭、湯屋への掛聯、個人の祝賀句合、追善句合が、月並句合のような時間的制約はないが、同一の仕組によって単発的に行われた。
 「月並句合」に欠くことができないものに「返草」がある。句合の成績を投句者に知らせる刷物で、半紙判、袋綴じで、分量は一流宗匠の場合五丁以上ある。一丁平均して六〇句から七〇句収めている。単発もの、寺社などへの奉額などには、とも紙ながら抱玉など当時名の通った画家の色彩画が描かれたものもある。
 『資料編二 文化・寺社』九二ページに、天保十一年(一八四〇)二月の南街堂文巡評月並句合を収載してある。この中で、「番外」は番外五客のこと、句の頭に「六」とあるのは六点句のこと、また「ホ六」とあるのは八点句のことである。白雉は一組は天位であるが、他の組の「叱らるゝ 云々」の句が「ホ六」に入っている。他の宗匠の場合は、投稿した組、例えば二の組の場合は「二ノ」、あるいは五の組であった場合「五ノ」と明示する場合もある。
 「月並句合」の様式は、太白堂孤月の場合は文巡の師匠であるので、句の頭に「六」とか「ホ六」とかの方法で、全く文巡と同一様式である。一方、宝雪庵蘭山の場合、五点句は「夏炉之部」、六点句は「六印之部」、七点句は「如冬扇之部」、八点句は初めは「褒章八印」で、後には「登竜之印」である。その弟子草宇の場合、弥生庵時代は、五点句は「五点之部」あるいは「朱上」、六点句は「六印之部」、七点句は「天上落之部」、八点句は「青竜之印」であった。宝雪庵襲名後は、師の蘭山に倣った。