月並勢力の進出・盛行

1058 ~ 1065
星布が文化十一年(一八一四)八三歳の長い生涯を終えた後、市域俳壇には、南の丘陵沿いに太白堂が、やや遅れて宝雪庵系の二大勢力が入ってきた。いずれも江戸で「月並句合」に力をそそいだ宗匠であった。
【太白堂孤月】 太白堂は芭蕉の甥である天野桃隣を祖とする俳系で六世江口孤月の時代であった。五世の山口桃堂の頃から、一門を挙げて『桃家春帖』という歳旦帳を刊行していた。歳旦帳というのは、歳旦にちなむ発句や、三つ物(連句の発句・脇・第三の三句)を集めた刷物で、宗匠などが毎年正月に板行した。孤月の時代には、その挿絵に渡辺崋山、弟子の椿椿山、崋山の息子小華を起用している。なお、『桃家春帖』の体裁は、雪中庵の『歳旦歳暮』と非常によく似ている。
 文政十年(一八二七)、長沼村(稲城市)の常楽寺境内に芭蕉句碑「明月に麓のきりや田のくもり」(『続猿簑』所収)が建てられた。建立者は、おそらく文政七年孤月評の月並句合に玉川とある長沼村の来夢である。補助は長沼村の名主の月人(森家)、多摩川北岸の押立村(府中市)の名主歩月(川崎家)、地元の人と思われる槌我の三名であった(『稲城市の石像仏・続』)。また、年代不明であるが、大丸村(稲城市)の但馬稲荷に孤月の句碑「玉川やかすミの先に又見ゆる太白堂系孤月」がある(同上)。いずれも太白堂系のテリトリーの宣言に解される。
 市史編さんに当って太白堂孤月の月並句合の資料は、文政五年から弘化四年(一八四七)に至る反草六〇冊が確認できた。このうち、「月並句合」三五冊、定会抜粋三冊、単発の句会六冊、寺社への奉額一二冊、追善三冊、茶亭掛額一冊となっている。定会句合とは、毎月日をきめて勉強会を行ったのか、遠隔地の者も参加しているので投稿によったものらしい。寺社への奉額句合のうち、弘化二年の「武州高幡不動尊谷保天満宮両社永代奉額」、弘化三年夏の「武州落川鎮守大宮奉額句合」、同年十一月の「武府中安養寺本堂額面四時混題句合」が含まれている。追善句合では、「遠明り 桃江十三回忌来夢十七回忌追善大相撲并百人一首三十六歌仙見立句合」は、文巡の先師桃江と常楽寺の芭蕉句碑建立者来夢の追善句合で、地方には珍しい一万数千句を集めた大句合であった。桃江は文巡の先師であるので、文巡の項において説明する。
 投句者の分布をみてゆく。市域は俳号を旧村別に紹介する(表6-41)が、それ以外は紙幅の都合により、現行都府県別人数のみ(表6-42)とした。なお、花判(附判)の者も投句者とみなした。以下、南街堂文巡・宝雪庵蘭山・弥生庵草宇の場合も同様である。
表6―41 多摩市域の投句者名
村名 太白堂孤月 南街堂文巡 宝雪庵蘭山 弥生庵(宝雪庵)草宇
一ノ宮 この女 二三丸 柳盛 愛丸 善斎 柳盛 6
落合 一舟 喜勇(沢花堂・桃街庵) 光山 糸山 〆木 沢月 布丸(南川堂) 柳水 柳泉 一舟 喜勇(沢花堂) 山彦 山吹 松甫(松声堂)布丸(南川堂) 文朝 柳栄 柳可 柳賀 柳水 柳泉 喜勇(沢花堂) 布丸(南川堂) 柳賀 柳泉 喜勇(沢花堂・桃街庵) 26
乞田・貝取 政甫(泰斎) 桃屋 桃室 文巡(桃随舎・南街堂) 柳雪 雲隣 玄圭 市盛 市石 市徳 多麻女 政甫(泰斎) 蘭富 柳雪(松花洞) 政甫(泰斎) 文巡(南街堂) 16
関戸 以清 梅三 以清 梅三 白蛙(街々堂) 梅枝 蕪禿 平宝 梅三 梅三 10
寺方 文月 雲梯 文月 花丸 4
連光寺 一瓢 うるひ(富廼屋) 花の枝女 橘堂 玉栄 月臼 子鳳 松雨 松風 鼠笑 鼎月 囀々 梅風 白月 白雪 白雉(松園・富雪亭) 風山 風水 卜枝 凡鳥 みとり女 溟山 〓流(桃園) 一枝 一盃 花の枝女 橘堂 玉栄 月臼 鶏林 三笑 三巴(汀々居) 松水 松風 芮人 知笑 直路(街山堂) 鼎月 囀月 囀々 兎笑 楠街 馬上 梅風 白月 白寿 白雪 白雉(松園・富雪亭) 白椿 白馬 凡鳥 冰白 風水(古松堂) 卜枝 〓流 みとり女 野草 禹流比(富廼屋) 月臼 素雪 直路(街山堂) 囀々 白蛙(街々堂) 白月 白雪 白雉(松園・富雪亭) 凡鳥 〓流(桃園) うるひ(富廼屋) 俊雉 寿々女 直水 白蛙(街々堂) 73
和田 松唯 雪山(南明楼) 蝶勢 嶋鶴 徳丸 梅月 光風 市花 松唯 水月(清々斎) 雪江 雪山(南明楼) 千鶴 蔦守 蝶勢 貞山(伊丸) 破琴 梅園 梅花女 梅月 万次郎 鳴鶴 翌風 鷺栖 和風 雪山(南明楼) 雪山(南明楼) 27
合計 49 85 19 9 162
 
表6―42 都府県別投句者数
都府県名 孤月 文巡 蘭山 草宇
東京都三多摩 260 349 117 270 996
23区 121 43 575 54 793
埼玉県 81 24 33 81 219
神奈川県(旧武蔵国) 83 73 20 31 207
青森県 3 3
岩手県 5 1 1 7
宮城県 28 2 1 31
秋田県 1 1
山形県 2 2
福島県 35 1 4 40
茨城県 107 16 4 9 136
栃木県 14 3 17
群馬県 58 12 3 13 86
千葉県 41 7 19 26 93
神奈川県(旧相模国) 40 22 7 15 84
山梨県 146 11 5 13 175
長野県 40 1 1 1 43
新潟県 21 1 1 1 24
石川県 12 1 1 14
福井県 9 7 12 28
岐阜県 22 2 10 34
静岡県 137 5 26 87 255
愛知県 16 10 7 33
三重県 19 6 1 26
滋賀県 8 3 11
京都府 2 1 3
大阪府 13 13
和歌山県 3 6 9
兵庫県 12 6 2 4 24
島根県 80 3 2 3 88
岡山県 3 3 1 7
広島県 15 15
山口県 5 5
香川県 1 1 2
愛媛県 15 1 2 5 23
福岡県 4 4
長崎県 9 1 4 14
熊本県 2 4 6
宮崎県 4 4
大分県 3 1 5 9
鹿児島県 2 2
40 22 511 794 1367
旧武蔵国小計 545 489 745 436 2215
全国合計 1515 604 1380 1454 4953

 太白堂孤月の特徴は、北は青森・岩手から南は愛媛・鹿児島にいたる広い地域に、万遍なく投稿者を持っていることである。交通不便な江戸時代に、驚異に値することであろう。従来月並句合には縁のないとされた京都、鹿児島が、前者は一名、後者は女性を主とした一八名の登場をみた。市域の俳人たちは毎月の返草を手にし、多摩のかたすみの自分たちの村が、また自分たちの俳号が、全国の名ばり聞いて見も知らぬ土地とその俳人たちと肩をならべてでていることに、驚き、誇りを感じたであろう。
【地元の宗匠南街堂文巡】 太白堂孤月の門下の宗匠に、乞田村の鈴木文巡がいる。庵号は南街堂、別号を桃隨舎といった。文巡の父は左京といって、文化十一年(一八一四)乞田村大貝戸の佐伯岩次郎の土地を借りて移住してきた。おそらく、医者を業としていたのであろう。文巡も医者であった。文巡の生年月日は不明であったが、府中市に住んでいる後裔の鈴木氏所蔵の「家宝名誉伝」という巻物のうち、「出生事」と題する文書に「亀之助 回慶度名付申候 文化五年三月十二日 利以(花押)」とある。これが文巡の命名書ではないかと思われる。文巡が宗匠として資料上登場するのは、天保九年(一八三八)の「武州日野宿百観音奉額句合」であって、前述の命名書が文巡のものであるとすれば三一歳の時のことになる。
 稲城市長沼の常楽寺通用口脇に、天保七年建立の筆子塚がある。その裏面に「こころに□(は)あさから降りて華の雨 桃江」と刻まれている(『稲城市の石造仏・続』)。子の桃江が、文巡の俳諧上の先代である。桃江は南街堂と号する宗匠で、文巡は正しくいえば南街堂二世である。桃江はもと御家人であった。文巡は桃江同様寺小屋を開いていた(『日本教育資料巻 二十三』都政資料館所蔵)。のちの弘化四年(一八四七)『遠明り』という、桃江十三回忌・来夢十七回忌の追善句合を催したことは、さきに孤月の項でふれた。選者は孤月と文巡の二名、それに楽判者一八名、その返草は一三丁に及ぶ実に盛大な句合であった。文巡の追善句を挙げる。
     追善の句合三風子をすゝめしにたくひまれなる大集とハなれり
     けに催主の功労たとふるにものなし両霊さそかし歓はるへしと
     古南街堂の墳墓にぬかつきて涙数行に及ひける
  月花のほねなれ墳にかれすゝき          判者 文巡
 太白堂一門の歳旦帖である『桃花春帖』弘化五年には、俳人の句がカット入りで入集しており、図師の桃周・花詠、小山田の翠柳・梅雄、片倉の素秋・清水、乞田の政甫、落合の喜勇は一人で半丁、落合の柳泉と落川の柳暁は二人で半丁、落川の吾風と大谷の数保・喜月は三人で半丁を占めている。また、安政三年(一八五六)の同帖(有山昭夫家伝来文書)には、南街堂連として柚井野連、川口連、諏訪宿連、落合連がでている。さらに、安政五年版には相模の中和田連が加わっている。
 特筆すべきは、天保十三年(一八四二)十月、百草村(日野市)松連寺に芭蕉百五十年忌を記念して、翁塚と庵室を建立するため勧誘状を板行したことである。「芭蕉翁塚造立簿」によれば、願主は「モクサ松連寺 魯庵」と「コツタ南街堂 文巡」であり、補輯(ほしゅう)、補助に錚々(そうそう)たるメンバー(六六名)を揃えているだけに、計画倒れは考えられない。この補輯、補助者が文巡を支えていた地盤であろう。しかし、翁塚は現存しない。
 文巡の月並返草資料は、天保九年から弘化四年にいたる返草五三冊のうち、「月並句合」三八冊、寺社への奉額・奉灯一〇冊、追善二冊、其他単発句合三冊となっている。寺社への奉額奉灯には、天保十年「馬引澤鎮守諏訪宮奉灯秋混題句合」、「武陽川口戸沢観世音永代奉額」、「武大丸但馬宮奉灯春冬三句合」が含まれている。
【宝雪庵蘭山】 宝雪庵の俳系は服部嵐雪の傍系で、大場寥和―三河屋寥和―浅井寥和―小泉呉随―奥村蘭山に続く。蘭山は天保十二年(一八四一)の月並句合返草で、「廿七年打続第弐百九十七会目」と記しているので、文化年間より月並句合を続けている。蘭山は美濃国山田の庄、郡上八幡(岐阜県)出身で、宗祇の故事にちなみ別号を白雲居と号し、天保十四年春に、その披露会を催している。その時の句。
   しら雲や名のある水に秋の澄 白雲居 蘭山
 宝雪庵の市域進出は太白堂より遅れて天保八年頃と思われる。まず蘭山がはいり、二、三年遅れて草宇の地元の恋ケ窪(国分寺市)で月並を始めたようである。
 蘭山は天保八年三月の月並句合号返草の欄外に「当月分より兼題出板ニ仕候間開巻当日賑々しく御出席奉希候」として、開巻の当日、兼題(予め季題を出しておくこと)句合を催し、その結果も返草に載せることを広告している。
 蘭山は弘化二年(一八四五)宝雪庵を養子草宇に譲り、自分は草宇の庵号弥生庵を名乗り、弘化三年に没した。蘭山はどの時代の辞書にも載ることがなく、その生年は不明である。いかに月並が軽んじられていたかを物語るものであろう。
 蘭山の月並返草資料七五冊で、うち月並句合は文政七年(一八二四)から弘化三年にいたる六〇冊、奉額二冊、其他句合九冊、他の宗匠との合同句合四冊である。このなかに、天保十四年春の「弥生庵草宇転庵披露句合」が含まれている。
【弥生庵(宝雪庵)草宇】 坂本草宇は恋ケ窪村(国分寺市)の農民であった。江戸へ肥汲みに行き、そのたびに蘭山のもとを尋ね俳談をかわすうちに、見込まれ夫婦養子となった。草宇はそれ以前の文政年間からの月並句合の投句者であったことが、蘭山はもとより太白堂孤月の返草から知ることができる。草宇は天保十年(一八三九)八月「馬引澤鎮守諏訪宮奉灯秋季混題句合」に南街堂文巡との共選を初見として、翌年から弥生庵草宇の名で月並の返草を出板している。草宇が宝雪庵を嗣号したのは弘化二年(一八四五)三月十七日であった。草宇は熱心な支援者であった富澤うるひ(昌徳)・白雉(政恕)親子の残した『富澤家日記』から、その披露会の模様をみてみよう。
弥生庵草宇年来志願通宝雪庵嗣号成就、両国柳橋河内屋半次座敷ヲ借リ披露会ヲ催、席上花桜三千句即吟近来無之会ニ而、士農商共三百人程出席ニ而賑敷、我等来助(弟沢雉)、柏屋(府中柏樹)等早朝ヨリ出席致、其外他門之宗匠四拾輩程見舞出会有之、当日目録金弐拾五両之有之候

とその盛会さを伝えてくれる。なお、草宇可尊と号を改めるのは慶応二年のことである。可尊は明治に入って故郷恋ケ窪に帰り地元先人の顕彰につとめ、明治十九年(一八八六)八八歳をもって没した(『国分寺市史』中巻)。
 確認できた草宇の月並返草資料は一二一冊で、月並句合は天保十一年(一八四〇)から嘉永五年(一八五二)にいたる七七冊(弥生庵時代三〇冊、嗣号後のもの四七冊)、奉額・奉灯二四冊、掛聯等六冊、追善二冊、他宗匠との合句号一二冊となっている。このうち、弘化四年六月の「白雲居蘭山居士小祥忌追福」が含まれている。