発句(現代の俳句)と違い、俳諧の連歌(連句)は他の作者との交流によって成り立つ文学である。一人で作品を作る独吟という方法もあるが、俳諧師としての幅広い知識や眼識を養うために、連衆という仲間と交わることは欠かせない要素であった。戦国時代の連歌師たち同様、旅の詩人といわれた芭蕉の旅の目的の一つにも地方の人々との交流があった。そこから、遊俳と呼ばれる諸国行脚の俳諧師たちが輩出した。小さな殼に閉じ籠もらないで、世間の優れた俳諧師に接して教えを乞うという遊俳の生き方がそこにある。そうした旅の中で、どこででもだれにでも通用する見識が養われた。
多摩市域における人たちの中にも旅をした人はいるが、俳諧修行を目的にしたものではない。しかし、多摩市域の俳諧師たちは、自分が外に出て他流派の宗匠に教えを乞うのとは別の方法、つまり、多摩市域に生活しながら、いろいろな流派の宗匠の教えを乞うという方法でこれを補っていた。それが複数の宗匠に指導を仰ぐという道を作り上げたのである。
これを宗匠の側から見ると、多摩市域は門人を獲得するのに都合がよい土地柄であったのかもしれない。俳諧師たちにはテリトリー(縄張り)があるようでいて、そのテリトリーは宗匠のいない地域において比較的流動的であった。幕末俳壇においては、一党一派に固執せず、それぞれの宗匠も自由に他門間との交流を深めていたため、多摩市域の俳諧師たちが流派の異なる複数の指導者に接していたのも不思議ではない。指導者たちの教義も、書籍や遊俳によって標準的な基準が整っていたし、違いがある場合でも優れた見識を優先する慣習があったので、教義上でのトラブルはさほどなかった。それ以上に宗匠たちも、門弟が同時に他の宗匠に師事していることによって、自分の見識を磨き上げる機会を与えられたといってよいだろう。門弟たちによる逆評価を考えると、宗匠たちも迂闊(うかつ)な指導はできなかったのである。
富澤政宏家伝来文書の連句作品資料は、七六巻。この中には、同一作品資料を記載した別本が一六巻含まれている。この重複分を差し引くと、作品数は全六〇巻になる。この中には、澤雉発句の脇起歌仙による松蔭「恋之詞独行連句」がある。全句に恋の詞を用い、松蔭が二句目以降を一人で巻き上げたものである。松蔭は、また、万葉仮名表記の和文体と漢詩文体による独吟和漢連句も巻いている。他に、宝雪庵草宇の庵号襲名を祝した歌仙なども含まれている。これらの作品を句数による作品形態によって分類すると、つぎのようになる。ただし、①歌仙と六六行の両方の名称が付されているものは、六六行に統一した。②半一巻と三六行の両方の名称が付されているものは別に扱い、一八句で巻き上げたものか中座したものか不明なものは半一巻として扱った。③七二候と七二行、鯉鱗合と鯉鱗行は同じに扱った。④付句が欠落しているものや句数が不足しているものは、定座や面移りなどから作品形態を推測して定めた。
百韻 二巻 七二候(七二行) 一巻 源氏行 一巻
長歌行 一巻 箙行 一巻 鯉鱗行(鯉鱗合) 七巻
歌仙 二五巻 六六行 一一巻 短歌行 一巻
半一巻(半歌仙カ) 二巻 三六行 二巻 表六句 一巻
表 (表六句カ) 一巻 発句脇 三巻 不明(表三句カ) 一巻
これらの作品中、作者名が全句不明の作品が三巻、作者名の不明な句が含まれている作品が七巻ある。そこで、作品中から作者名を摘出すると、つぎのようになる。ただし、①読み名が明らかなものを除き、漢字音や平仮名による五十音順を基本に配列した。②別号同人と思われるものも、雅号別に分けて配列した。ただし、明らかに表記上の違いだけによる同号にかぎり、( )を付して同項の次に記した。③旧漢字・略字などは、新漢字に改めた。
うるひ(うる比・禹流比)・翁松翁・花笑・可尊・宜山・橘園・橘良老・旭雉・久練堂・好文・古木・砕玉・佐和もし(佐和文字)・山梁舎・篩月・秀香・松蔭・松園・省我・扇山・草宇・沢雉・竹睡・直夫・直路・鎮牛・桐園・桃街(桃街坊)・桃船・富の屋・梅三(楳三)・楳室・白蛙・白月・柏樹・白雪・白雉・白鳳・風阿・風月・風水・扶水・富雪亭・ふん流(汶流)・邦彦・宝雪庵・凡鳥・万亀・未仙・蘭園・蘭山・柳暁・聊咏
右の雅号には、宝雪庵が蘭山か草宇か、楳室が桜井梅室かどうか不明な点もある。また、同人による別号も含まれている。そうした別号同人を差し引くと、富澤政宏家伝来文書に登場する連句作者は、全部で四〇名以下になる。高度な専門的知識を必要とする連句の作者の居住地域は、多摩市域周辺に二七名以上、おそらく三五名前後はいたであろう。最低に見積もって二七名強としても、当時の人口密度からすれば多いといわざるを得ない。だから、この数は驚異的である。人口密度に対する作者数の多さは、専門的な知識を必要とする俳諧熱の高さを示している。その俳諧熱は、複数の宗匠たちとの出合いとともに、中心的な人物が存在しなければ高まらなかったであろう。多摩市域に俳諧を普及し、定着させた功労者として、宗匠連の蔭に隠れた富澤禹流比・澤雉兄弟、禹流比の子白雉(松蔭)の存在は見過ごせない。