連句の指導法

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宗匠は、どのようにして連句を門弟に指導したか。基本的には、連句が「座の文学」と呼ばれるように、新弟子たちは兄弟子たちの連衆に加わり、創作の場を通して宗匠や兄弟子たちの助言を受けながら学んでゆく。もちろん、作法書のような入門書もあるが、基礎知識となる式目はともかく、応用を必要とする作法においては、同じような句を詠んでも前句に付く句と付かぬ句がある。その微妙なところは、個々の具体的な作例に接しなければ理解できない。いってみれば、作品の作り方を学ぶのでなく、俳諧精神における風雅の誠を感得し、体得するのである。そうでなければ、連句が特色とする変幻自在な発想法と変化発展する一巻を統一する精神は養われない。作法を学ぶのでなく、宗匠の精神までをも学ぶのが連句である。
 しかし、いつも宗匠に同座してもらうわけにもゆかない。気の合った連衆が集まり、自分たちだけで一巻を巻くこともある。そのような作品は、宗匠の指導を受けなければ、連衆は誤った方向に進んでしまう。そこで、出来上がった作品は加筆などにより宗匠に添削してもらうのである。このようにして宗匠の指導を受けたものが、連句資料編で取り上げた作品である。そこで、ここでは宗匠の異筆によって加筆された評語の意味を中心に説明してみたい。
 資料編に示した点印は長所の評価に用いられ、点印による長所の指摘の方が、短所を指摘した加筆部分より圧倒的に多いことは資料から理解されよう。ここでは、一句の仕立て方、付句の付け具合、三句の流れ、去り嫌いなどの短所を指摘、訂正した宗匠の加筆部分を見てみよう。最初に、まず一句の仕立て方から見ることにする。
れいけんありて時花ル木の瘤(はやるきのこぶ) → 不思議(ふしぎ)のありて時花ル木の瘤(はやるきのこぶ)

(久練堂評「菊色/\」の巻・名表十句目)

 「木の瘤」に触れたり拝んだりすると祈りが通じる、という噂が世間に広まり、「木の瘤」崇拝が流行ったという句である。原句の「れいけん(霊験)」でも意味は通じるが、ご利益があった結果、人々が霊験あらたかであると評価が定まったところから発想している。これでは、句に動きが出ない。そこで、抽象的な説明である「れいけんありて」を、「不思議のありて」にすると、実際「木の瘤」に触れたり拝んだりした者に、考えられないような出来事が起きたという心の動揺が具体的に指摘され、句に立体的な動きが出てくる。不思議がる庶民の心情、その噂から流行る庶民信仰。霊験ということばを用いなくても、自然と読者の心の奥底で理解される。松尾芭蕉が「言ひおほせて何かある」といったのは、このことである。結果の説明には、抽象的な思考作用が加わる。それを具体的な心理作用において把握するところに、人の心を感動させる表現が生まれる。適切にして意を得た加筆である。
時折(ときをり)出(だ)して双六を打(すごろくをうつ) → 時折(ときをり)ふして双六を打(すごろくをうつ)

(久練堂評「菊色/\」の巻・名裏二句目)

 時折、双六を取り出して遊んでいるというだけでは、双六を打っている人物の心情が現われない。正座したり胡座をかいたりして打っていたのでは、単なる手遊びでしかない。これを「ふ(臥)して」とすることにより、つれづれなるままに無聊(ぶりょう)をかこつ人の心情が浮かび上がってくる。畳の上に横になり、物思いに耽りながら双六を打つ若者の姿が、動詞一つの差し替えによって彷彿としてくる。加筆した久練堂の力量が偲ばれる。
いつか切(き)られし腰(こし)の巾着(きんちゃく) → いつか切(き)られし腰(こし)の印籠(いんろう)

(久練堂評「声聞て」の巻・初表二句目)

 庶民が巾着(財布)を掏り取られることはよくある。ところが、他人に隙を見せない武士が、知らぬ間に腰に下げた印籠を掏り取られたとなると、掏り取られた人物の心情が違ってくる。しまった。してやられた。武士の面目も丸潰れである。幕末の高価な印籠には、家紋も入っていたろう。その武士の表情や心中が手に取るように思い浮かぶ。
基手(もとで)いらつ(ず)に豆腐抜るゝ(とうふぬかるる) → 基手(もとで)いらつ(ず)にはたつ豆腐屋(とうふや)

(槻廼本評「露に迄」の巻・名表二句目)

 原句は、「るゝ」を受身の助動詞とすると、一句の仕立ては複雑である。抜いた(だまし取った)相手が「基(元)手いらづに」、自分が豆腐を抜かれたとなる。「基手いらつに」という連用修飾部が「抜るゝ」に掛かることになり、それでは意味が分裂してしまう。また、「るゝ」を尊敬の助動詞とすると、豆腐屋に尊敬語を用いるのは不自然である。そこで、一句の表現をすっきりさせるために、「基手いらつにはたつ(始める)豆腐屋」とした。一句が理屈めいてくると、連句を味わう連想の流れが止まってしまう。原句のように主語が複雑に入り組んだような表現は、連句では避けなければいけない。このことは、半閑堂評「ほとゝきす」の巻でも指摘されているところである。
羽か(はが)ひの霜(しも)を振こほす鳥(ふりこぼすとり) → 羽か(はが)ひの霜(しも)をこほす浮鳥(こぼすうきどり)

(槻廼本評「露に迄」の巻 名表十二句目)

 下七の「振こほす」という表現はよいのだが、「鳥」といっただけでは、具体的な鳥としての姿が見えてこない。樹上や地上に眠る鳥では、詩情が乏しい。ここは冷たい水の上に浮かんで眠る水鳥とした方がよい。そこで「浮鳥」に改めたのである。「浮」は、もちろん「憂き」の掛詞である。「こほ(零)す」は、「振るふ」や「払ふ」にするとよかったのかも知れないが、これは原句を生かそうとする宗匠の思いやりであろう。
温泉座敷(ゆざしき)の掃除(さうぢ)初(はじむ)る花の頃(はなのころ) → 温泉座敷(ゆざしき)の掃除(さうぢ)届(とどき)し花の頃(はなのころ)

(山梁舎評「遠霞」の巻・名裏五句目)

 花は賞美する心の象徴である。美しい気持ちで詠まなければいけない。中七「掃除初(始め)る」できれいに掃き清めるつもりで詠んだのであろうが、これでは花に埃を立てることになり、遠慮しなければならない。そこで、掃除も行き届き、きれいになったという意味の句に改めた。特に、挙げ句の花の定座は、めでたく一巻を巻き上げる挙げ句前の花であるから、花を塵や埃で汚すようなことは慎まなければならない。
はつ穂(ほ)まひても騒く真雀(さわぐますずめ) → 参供(さんぐ)をまけハ(ば)騒く真雀(さわぐますずめ)

(山梁舎評「あらひなハ」の巻・初裏十句目)

 神仏にお供えする穀物などを「初穂」「散供」という。原句の上七は、「ても」が気になる。普段でも騒がしく鳴き立てる真雀(「真」は接頭語)は、初穂を撒いても騒ぐことよ、という表現である。これでは、普段と何も変わらないのであって、初穂を撒いた意味がない。やはり、ここは「撒けば」という原因や理由を示す接続助詞「ば」を用いなければならない。これによって、初穂を撒いたので、雀たちが騒がしく鳴き立ててついばむ姿が現われる。前句と付句が原因と結果の関係で付けられるのはよくないが、一句中での原因と結果の関係は支障ない。また、「はつ穂」を同義の「参供」に改めた理由は、一句の音律効果を狙ったものである。つまり、これによって「サんぐをマけばサわぐマすずめ」という各文節の頭になる「サ」と「マ」の音律の反復から語呂のよさが生じる。「さんグをまけバさわグますズめ」という濁音との絡み合いも、語呂をよくしていよう。句を読んだときの口調のよさは、「舌頭千転」などとして発句の仕立て方などでも大切にされている。
鳰(にほ)の果(はて)から風薫来(かせかをりく)る → 湖(うみ)の果(はて)より風薫来(かぜかをりく)る

(宝雪庵評「春の山」の巻・名裏六句目)

 「鳰」は、鳰の湖(におのうみ・琵琶湖の異称)の意味で用いたのであろうが、これを鳰と略して用いることはない。「鳰」とだけいう場合は、水鳥のカイツブリを指すことになる。そこで「湖」と改めた。「から」を「より」に改めた理由は、音調にもよるだろうし、微妙なニュアンスの相違にもよるのであろう。「~カらカぜカほりクる」とカ音に三つたたみかけ、同じカ行音のクを最後に添えたときの口調は、語呂のよさはあるが硬すぎる。そこで、上七をなだらかな音で仕立て、下七を硬音で受けるようにすると、滑らかに湖上を渡ってきて風がそこに立つ人物に爽快な気分をもたらすという劇的な状況を具現せしめ、一句に起伏ができる。細部にまで意をそそぐ宝雪庵の表現は確かである。
汐(しほ)に浮鯨(うくくぢら)の見(み)ゆる花日和(はなびより) → 沖(おき)に浮鯨(うくくじら)の見(み)ゆる花日和(はなびより)

(宝雪庵評「出歩行て」の巻・初裏十一句目)

 たった一文字の訂正である。この程度の訂正では、さしたる違いもないように思われる。原句は、夕方の海水の流れを「汐」で表わしたのであろうが、宝雪庵は素直に「花日和」を陽光がうらうらと射す日中のこととし、その長閑さを出すために、「汐」を「沖」に改めたものと思われる。沖に浮く鯨を遠景に配することにより、「花日和」の長閑さや麗らかさも一段と立体絵画的になる。
 つぎに、一巻の構成による句の配置、去り嫌い、その他の差し合いについて取り上げてみよう。
奥筋(おくすぢ)の野分(のわき)の手紙走(てがみはし)らせて

ゑひ(び)すの船(ふね)は散(ちっ)て失(うせ)けり  四句(しく)めいさゝ(さ)か

(久練堂評「声聞て」の巻・初表三、四句目)

 この付句は、表六句の四句目の句として問題があるというので、「四句めいさゝか」の評言が付されたものである。したがって、一句そのものの表現を取り上げているのではない。流派により宗匠によって多少の違いはあるが、おそらく、関東伊勢派の教えによったものであろう。「散って失けり」から「船」は黒船で、「ゑひす(夷)」は外国の意味で用いられているのであろう。が、前句の「奥筋(東北方面)」に「ゑひす」が付けられると、表六句に嫌う蝦夷地の意味として解釈されてしまう。これは付き過ぎで、「奥筋」を限定して説明する付句になってしまう。では、「奥筋」も地名ではないかという疑問も出てくるが、特定の地名や国名としてではなく、おぼろげないい方なので問題ない。ちなみに、神祗・釈教・恋・無常などは印象が強く、心理に及ぼす作用が激しいので、表六句に詠み込むのを嫌う規制がある。その他、地名・人名・述懐・病体なども一般的に嫌われる素材である。印象の度合いを考慮しない宗匠は、地名・人名・述懐などを表六句に詠み込むことを認めるが、感覚に優れた宗匠は嫌うべきものとして扱う。また、三句目は連想作用を外に向かって発展的に展開させるような句が好ましく、四句目はそれを軽く受けて転じきらせてやらなければならない。ところが、「散りて失せけり」は発展的なようでいて、発展する方向を「失せけり」によって消滅させてしまっている。さらに、「走らせて」「散りて」という接続助詞の「て」文字も、異義の同字は二句続けてもよいが、同義の同字は二句続けてはいけないという規制に触れる。助詞の場合、一般的にこうした規制には触れないが、接続助詞は連想の流れに強く係わっているので問題になる。その他の助詞でも、意味の強いものは同様に扱われる。つまり、「て」には転換の働きがあり、二句単位で転換してゆく連句では、前後の数句中に一か所用いることが許されているだけである。この指摘は、芭蕉の批点資料にも見られる。このようにやや問題の多い四句目振りを、久練堂宗匠は見とがめたのである。
居風呂(すゑぶろ)へ木のミ落込月夜さ(このみおちこむつくよざ)し 三句(さんく)なか(が)ら長句の月少/\残念(ちゃうくのつきせうせうざんねん)

(山梁舎評「遠霞」の巻・名表十一句目)

 歌仙には二花三月という月花の定座がある。自然の美を愛でる風流な精神の象徴として一巻中に配され、これら月花の句が一巻に均等に配されるように、初表・初裏・名表・名裏の面単位で指定されているのが定座である。このように、同じ素材の月花の句が指定されていると、同じような趣向の句が詠まれる可能性が強い。そこで、一巻中の月花の句は、それぞれ趣向を変えなければならない。また、花の定座は二か所なので五七五の長句による花の句が二句あってもよいが、七七の短句二句だけというのは好ましくない。月の定座は三か所なので、できれば長句と短句を適宜交えて変化を持たせたい。もちろん、絶対的によくないという規制があるわけではなく、宗匠の裁量に任せられているといってよい。山梁舎は、句の長短によっても変化を持たせることを大切にしていたのだろう。一巻中に三句ある月の句が、
馬柄杓(まびしゃく)に汲ひ上(すくひあげ)たる月の影(つきのかげ)

(初表五句目)

涼し気(すずしげ)に一声蝉(ひとこゑせみ)の月に啼(つきになき)

(初裏七句目)

居風呂(すゑぶろ)へ木のミ落込月夜さ(このみおちこむつくよざ)し

(名表一一句目)

と、すべて長句であることを見とがめ、「三句なから長句の月、少/\残念」と評言を加えたのである。
料(れう)る□の月(つき)に刎出(はねだ)す 月一句近(つきいっくちか)し

(弥生庵評「氷る夜の」の巻・初裏六句目)

 これは、右の月の定座の説明で述べたように、定座は面単位で指定されている。月の句は、初折の表に一句、初折の裏に一句、名残の表に一句配置するようにされている。「月は出るに任せよ」というように、少し変則であってもどこに月の句を詠み込んでもよいのであるが、これも宗匠の裁量によって何句去らなければ月の句を詠み込んではいけないという考えが出てくる。たとえば、初表六句目に月を詠み、初裏に面を替えた三句目にふたたび月の句を詠むのはよくない。いくら折が替わっているといっても、前の月の句から四句しか去っていないのである。月花の句は思い込みによる印象が強いので、暗記力や起想力に優れた俳諧師たちは、すぐに初裏六句目の月を思い出してしまう。こうなると、発展的な連想の展開を身上とする連句は、前出の月の印象に引き戻されてしまう。そこで弥生庵は、裏移りしても最初の六句中に月の句を詠んではいけない、と考えたのである。初表の月の句は、五句目の「翌日の月庖丁利へ夫が当り」であった。初裏六句目に「料る□の月に刎出す」と詠むのは一句早く月を出し過ぎた、というのである。
朝(あさ)から蝶(てふ)の多(おほ)き大和路(やまとぢ) 一折(ひとおり)に大和(やまと)の名所二ツ(などころふたつ)

(久練堂評「菊色/\」の巻・初裏一二句目)

 これは月の句ではないが、印象の強いことばとして地名を考え、印象が前に戻ることを指摘したものである。「一折に大和の名所二ツ」というのは、輪廻(類似した詩情が輪廻転生し、印象が前に戻る障り)である。「大和」は、現在の奈良県の旧国名。「名所」は、和歌などに詠まれて有名な地名。「大和路」の左側に朱の圏点「○」を付し、もう一つ大和の名所を詠んだ句、
  三輪の山(みわのやま)誰分入(たがわけい)りし足の跡(あしのあと)   (初裏五句目)
の「三輪の山」の左側にも朱の圏点「○」を付して差し合いを示している。いずれも初折の裏の五句目と一二句目に当たる。地名の印象が強いことは、すでに久練堂評「声聞て」の巻(初表四句目「ゑひす」)でも説明した。
  1.此湊(このみなと)出る帆入帆(でるほいるほ)に賑(にぎは)ひ
決句(けっく)壱人(ひとり)百(面)白(おもしろ)き旅(たび) てもし(「て」もじ)清濁(せいだく)の差別ハ(しゃべつは)あれと(ど)見く(ぐ)るし

(弥生庵評「翌日/\と」の巻・初表三、四句目)

  2.赤い緒(あかいを)の草履長閑(ざうりのどか)にはき連(つれ)
塵垢離(ちりごり)とつ(っ)撫る駒犬(なづるこまいぬ)

(弥生庵評「翌日/\と」の巻・名表一、二句目)

  3.誓ひ(ちかい)せし甲斐(かい)にしぼれバ(ば)乳(ち)のたり
ふとした事(こと)添(そひ)とげる縁(えん)

   *朱筆で前句の「たり」を「こほれ」に訂正
(弥生庵評「氷る夜の」の巻・初裏三、四句目)

 右の三例の中、難点を朱の傍点で指摘した1.2.は、久練堂評「声聞て」の巻で前述した「走らせて(初表三句目)」「散て(初表四句目)」における接続助詞「て」の差し合いである。3.は、前句が接続助詞の「て」で、付句は~ニヨッテの意味を表わす格助詞。格助詞の「で」は、格助詞「に」に接続助詞「て」が接続した「にて」の転であるといわれるように、接続助詞「て」の意味が含まれている。優れた俳諧師は、こうした微妙な意味的なニュアンスの類似性にも敏感である。また、3.は前句の「て」に朱の傍点を施すとともに、これを「こほれ」に訂正している。「足りて」か「垂りて」か意味が不分明であるという理由もあるだろうが、「垂りて」を「こほれ」とすることによって、「て」の差し合いを避け、出過ぎるほどよく乳が出るという表現に改めたのである。
合点(がてん)して居(ゐ)ても瓢(ふくべ)に天窓打(あたまうつ)

軒(のき)の低(ひく)きが目(め)にかゝ(か)りけり 前句(まへく)の噂(うはさ)にて

(久練堂評「声聞て」の巻・名裏一、二句目)

 付句は、軒先に吊るした瓢箪で天窓(あたま)を打ったのは軒が低いからだという理由を付けたものだが、一句の仕立てから、久練堂は前句の出来事を噂に聞いた人が、その人の家を見て抱いた感想を付けたものと解釈している。前句を噂と見立てて句を付けると、どうしても原因・理由・結果などの内容になってしまう。前句との論理的な脈絡を断ちながら二句の間に映発する世界で結ばれてゆく連句では、こうした連想方法は認められない。付き過ぎなのである。
穴(あな)のあくやうに降出(ふりだ)す俄雨(にはかあめ)

埃り交(ほこりまじ)りに昇(のぼ)るなつの香(か) 附過(つけすぎ)たり

(槻廼本評「露に迄」の巻・初裏一、二句目)

 この付句も、因果関係による付けで「附過たり」ということになる。もちろん、原因と結果という関係を直接示した付句ではないが、埃をしずめる「俄雨」の句と「なつの香」を「挨り交り」に立てる句は、
埃り交(ほこりまじ)りに昇(のぼ)るなつの香(か)

穴(あな)のあくやうに降出(ふりだ)す俄雨(にはかあめ)

と、前後逆に配置してみれば、完全に因果関係にあることが理解されよう。
縮ミ(ちぢみ)うみ/\(うみ)ものおもひ居(ゐ)る

榾(ほだ)の火(ひ)に兎(うさぎ)の肉(にく)をあふ(ぶ)らせて

塩(しほ)の切(き)れたる国(くに)の冬枯(ふゆがれ) 少(すこ)し戻(もど)る気味(きみ)ありてうるさし

(半閑堂評「ほとゝきす」の巻・初裏六~七句目)

 これは、三句の見渡しにおいて、「塩の切れたる国の冬枯」の句の趣が松園の「縮ミうみ/\ものおもひ居る」に戻る気味があってよくない、という指摘である。では、その趣とはどのようなものか。縮緬の糸を紡ぎだしながら物思いに耽っている心情と、冬枯れて塩が切れた地方に住む人を思いやる心情が、中一句を挟んで似ている。つまり、打越の嫌いがあるのである。「縮ミうみ/\」の「うみ」には、倦みあぐむ憂いが読み取られる。
袴(はかま)の皺(しわ)をのは(ば)す添嫁(そへよめ)

恥(はづか)しき顔(かほ)の移(うつ)りし給仕盆(きふじぼん)

入(いれ)た黒子(ほくろ)に見(み)おほ(ぼ)えのある 少(すこ)し変化有(へんくわあり)たし

(槻廼本評「露に迄」の巻・名表四上~六句目)

 これは、前句への付所が「顔」から「黒子」と、人体上での特徴で付けられている。これは明らかに付き過ぎである。また、二句前の「皺」は衣服の皺であるが、「皺」「顔」「黒子」と並べてみれば分かるように、印象的に三句絡みになるような連想の流れがある。恋の句としても、「添嫁」「恥しき顔」「黒子」では変化に乏しい。そこで、「少し変化有たし」という評言が加えられたのである。
うらせぬはづてゆつ(づ)る化粧田(けはいだ)

一振(ひとふり)の薙刀家(なぎなたいへ)にもちつたへ

利根(とね)をせき込(こむ)早苗百町(さなへひゃくちゃう) 化粧田(けはいだ)に早苗心(さなへこころ)の打越(うちこし)たるへ(べ)し

(山梁舎評「あらひなハ」の巻・名表六~八句目)

「化粧田(嫁入りのときに持参する田地)」は話題上でのこと、「早苗百町」は早苗を植えた百町歩の田地の風景で、普通このような場合は別扱いされることもある。しかし、「化粧田」と「早苗百町」は、同じ田地を素材にしているので、明らかに連想が二句前に戻る。このように、中の一句を挟んだ前後に同じような素材や趣向の句が付けられているものを打越という。
見(み)たより年(とし)の多(おほ)い若衆(わかしゅう)

等閑(なほざり)に逢(あは)れぬ恋(こひ)のおもしろく

心(こころ)も透(すい)てミ(み)ゆるかたひ(び)ら *「ゐ(い)たる」に訂正

(南街堂点評・「菜はたけに」の巻・名表四~六句目)

 名表六句目下七の「ミゆるかたひら」を「ゐたるかたひら」に改めたのは、「ミゆる」が二句前の「見た」と打越の関係になるからである。
たのまるゝ(る)新酒配(しんしゅくば)りの人雇(ひとやと)ひ 一句自他覚束(いっくじたおぼつか)なし

(南街堂評「菜はたけに」の巻・巻末)(半閑堂評「ほとゝきす」の巻・初表一句目)

「自他」とは、付句の変化をはかるときの視点の変化をいう。句の表現が「自分が~する」となるものを自の句といい、自分以外の「他人が~する」という表現になる句を他の句という。また、登場人物のいない句は場の句という。特に、芭蕉の晩年、加賀の立花北枝が従来の自他論を整理し、芭蕉によって認められたところから、蕉門伊勢派で尊重された。江戸時代中期以降、松原庵星布が師とした加舎白雄が喧伝し、流布した。
 つぎに、短所の指摘ではないが、批点を下した巻末に優れた句を抜き出して示したものを見てみよう。
  1.占か(うらなひが)当(あた)れハ(ば)明(あか)すものおもひ
鏡(かがみ)の曇払(くもりはら)ふ鴛鴦の羽(おしのは)

(南街堂評「菜はたけに」の巻・巻末)(山梁舎評「あらひなハ」の巻・初裏三、四句目)

 二句ともに恋の句。恋人に思いを打ち明けられない女性が、恋の病にでも臥したのであろう。家人たちが占いを頼んでみると、恋の病と出た。そこで娘は心の中を明かす。これによって心の中の憂いも消え、晴れて夫婦になれたことを、「鏡の曇払ふ鴛鴦の羽」と付けた。「鏡の曇払ふ」には、化粧をする鏡の曇りが研ぎ澄まされて明るさを取り戻す意味と、娘の顔から憂いが消え去った意味が含まれている。「鴛鴦の羽」は「鏡の曇払ふ」ものとして詠まれてはいるが、実際にそのようなことはない。ここでは、夫婦仲のよい鴛鴦によって、結婚を仄めかせた句である。巧みな付句である。
  2.  前句略ス
(a)たゝ(だ)丸(まろ)かれとふくへ(べ)育(そだ)てる

(南街堂評「菜はたけに」の巻・巻末)(弥生庵評「翌日/\と」の巻・初表六句目)

「ふくへ(瓢箪)」は、容器に使用するものであるから、細長く育ったのでは使い物にならない。しかし、ここはそのような現実的な意味とは別に、丸く育つ人の心が「ふくへ」に託されている。松永貞徳以来、人の道を養う俳諧道を尊ぶ精神がここに見られる。それを、弥生庵は評価したのである。
(b)しらミ(み)も質(しち)に置(おい)て長閑(のどけ)き

(南街堂評「菜はたけに」の巻・巻末)(弥生庵評「氷る夜の」の巻・初裏一二句目)

 貧しい人が着物に蚤まで付けて質入れし、長閑な春の気分を味わっているという句である。貧乏人の負け惜しみではない。無一物にして、なお風流の精神を忘れない姿を句にしたことを、評価したのである。風流もここに至れり、というのである。
  3.  前句、
手障(てざは)りも大事(だいじ)に蚕(かひこ)を飼立(かひたて)て

     といふに、
臼(うす)の目切(めきり)を断(ことわり)にやる

(南街堂評「菜はたけに」の巻・巻末)(宝雪庵評「出歩行て」の巻・初表三、四句目)

 孵化したばかりの蚕は黒くて毛があるが、脱皮をすると毛もない灰白色になり、やがて一〇センチくらいに成長する。その手触りの違ってゆく過程を楽しみにして育てる、というのが前句の意味である。「臼の目切」とは、石臼の溝が擦り減って目立てをすること。「断にやる」は、目切りを頼んだ石屋に、その必要はないと断りに行かせる意。「蚕」と「臼」の関係は不明であるが、おそらく、ここは付所もなく付けた空撓(そらだめ)であろう。前句の優しい思いが、目が擦り減ってなだらかになった臼を大切に使う心に映じている。付句をケチな人のことと解釈してしまうと、連句としては好ましくない句になってしまう。
  4.  前句略
こゝ(こ)ろもすいてミ(み)ゆるかたひ(び)ら

(南街堂評「菜はたけに」の巻・巻末)(南街堂評「菜はたけに」の巻・名表六句目)

 これは下七を訂正する前の原句であるが、南街堂は一句として優れていると考えたのである。何気負うところもなく、夏着の「かたひら(帷子)」を気楽に着ているところに、自由な心を尊ぶ俳諧精神の骨頂がある。
 この他、作品中には見当たらない出展不明の短句
光(ひかり)そへたる夕か(ゆふが)ほの露(つゆ)

(南街堂評「菜はたけに」の巻・巻末)(久練堂評「声聞て」の巻・巻末)

がある。これは作品中の句ではなく、久練堂が「夕顔のように美しい光を放つあなたがたの作品に、露のようにはかない批点によって光を添えさせていただきます」という意味で書き添えたもの。このような付記は、
はなは地(ち)をゑらハす(えらばず)

(南街堂評「菜はたけに」の巻・巻末)(弥生庵評「翌日/\と・氷る夜の」の巻・巻末)

にも見られる。弥生庵は、「花が地を選ばないで美しく咲くように、わたしは作者によって評価を下すようなことはしませんでした」という意味を、これによって表明したのである。連句は、地位、身分、年齢、性別によって作品を評価することはないし、それらによって連衆が差別されるものでもない。それが、連句の花の象徴する美の世界なのである。
如測妙(めうなるをはかるがごとし)

(南街堂評「菜はたけに」の巻・巻末)(宝雪庵評「春の山・出歩行て」の巻・巻末)

の「如妙」は、「妙なる句を測るようなもので、いずれも甲乙付けがたい」という賛辞を添えたもの。
南街即校(なんがいそっかう)

(南街堂評「菜はたけに」の巻・巻末)

は、南街堂が「即座に校合したため、間違いがあるかも知れません。間違いがあったらお許し下さい」という意味で添えたことばである。他の巻に見られる「管見」や「井見」も、評者の見識を謙譲して巻末に添えた語である。
 蛇足ながら、宝雪庵評「出歩行て」の巻の巻末に、
「明烏(あけがらす)は晴(は)るとも。うるひうしも帰杖(きぢゃう)におもむかれむほと(ど)に、罷点(ひてん)くた(だ)し給ん事(たまはんこと)をひたすらに弥宜申候(ねぎまうしさふらふ)」

とあるのは、批点依頼主が宝雪庵宛に記したもの。「明け烏が鳴くと晴れるともいわれております。旅に出ておられる禹流比大人も旅日和のもと帰途に着かれるころですので、旅から戻られる前に批点をお付け下さいますよう、ひたすらお願い申しあげます」という内容である。「罷点」は、批判の点を加えた「批点」の「批」に謙譲の意味の「罷」を当てたもの。この一文を書き添えた依頼主は、連衆の一人で禹流比の弟でもある澤雉と思われる。
 このような歴史的遺産としての連句は、歴史家によってその価値が認められなければ、他市区町村の郷土史資料から欠落してきたように、永遠に埋もれた資料として日に当たることはないであろう。しかし、近世俳諧の母体が連歌にあり、そこから派生した連句の精神が発句や俳文に多大な影響を及ぼしていたことを考えると、連句が俳諧の要であったことは自明の理である。発句資料だけを取り上げ、郷土にどのような作者がいたかだけを重んじる姿勢よりも、郷土の作者たちが、連句を通してどのような人間関係を築いていたか、人間としてどのような修行をしていたかを資料によって明らかにすることは、市史の大きな目的の一つでもあろう。月並俳諧を発句のみならず、連句を加えることによって、複数の宗匠たちから真面目に俳諧を学ぶ作者の姿が浮かび上がってくる。このような意味からも、限られた紙数の中で幕末俳諧資料が総合的に取り上げられた意義は大きい。