中世と近世との寺院や神社のあり方の大きな違いのひとつに、寺院や神社を経営・維持するための保護者(外護者・檀那)の層の変化がある。
中世、熊野参詣の先達を宗教活動のひとつとしていた在地の修験や熊野三山の御師による諸国の檀那の掌握は、応仁・文明期(一四六七~一四八六)を境として、それまで伝統的に行われていた一族・一家あるいは名字を単位として掌握する方法から、地域を単位とする掌握方法へ急激に移行していった(新城常三『社寺参詣の社会経済史的研究』)。それは、かつて寺院や神社を氏寺や氏神として、僧侶や神官に血縁者を入れ、一族の結合や地域支配に役立てていた守護大名や戦国大名・在地領主など、大檀那としての保護者であった武士層が度々の合戦によって没落し、さらに室町後期から江戸初期にかけて行われた兵農分離政策や改易・転封によって、その土地から離されたため、寺院や神社は、保護者を新たに地域の村落や農民に求めざるを得なかった(高埜利彦「江戸幕府と寺社」『講座日本歴史』五)ことを具体的に物語っている。寺院や神社のこの状況と、おそらくは戦乱の世に野ざらしの屍を目の当たりにしてきた人々の、葬儀が執行され墓に納められて菩提を弔われたいという願いとが相俟(ま)って、近世前期に至るまでに、各地で中小の寺院がおびただしく開創された。たとえば関東では、曹洞宗が葬祭や祈祷などを通じて地域に教線を拡大していったように、新義真言宗・修験宗なども積極的に活動を展開し、他宗寺院の改宗や寺庵の昇格などによって、末寺となる寺院を増やしていったのである。