こうして全国に増加・拡大していった中小の寺院を、江戸幕府はどのようにして統制したのであろうか。幕府が諸宗本山に寺院法度を頻繁に出した時期は、慶長六年(一六〇一)から元和二年(一六一六)にかけてであったが、契機となったのは急激に教線を拡大した諸宗派間に生じた訴訟事件で、その裁決の結果として制定された法度が少なくなかった(辻善之助『日本仏教史』第八巻)。したがってこの段階の法度の特色は、奈良や京都の大寺または宗派単位に出されたことで、諸宗派全般にわたって規定した宗教法といえるものではなかった。またその意図は、中世以来寺院がもっていた特権を剥奪して政治的・経済的に規制し、本末関係における本寺の権限を強化するとともに、寺院を幕藩体制の支配機構の中に組み込むことであった。
近世の本末制度は、その目的に添って制度化されたものであった。元和二年までに徳川家康が各宗本山に対して発布した寺院法度には、末寺住職の任免権と僧階の格付けは本山の権限であり、末寺は本山の命令に絶対服従、本山は教学・修行の場を提供し、一定期間の服務を義務づけることなどを規定している。さらに幕府は本山の許可なく新寺院を建立することや、寺号・院号を私的に付けることを禁じ、末寺が本山・本寺と無関係に存在することを不可能とする政策をとった。これらの法度によって法令的には本末制度は成立したが、本山・本寺による末寺の掌握は一挙に進んだわけではなかった。幕府は寛永九年(一六三二)・十年に、各宗本山に対して本末帳の作成・提出を命じた。各宗派末寺が本山・本寺作成の帳簿に記載され、本末関係を本寺・末寺の相互に確認・確定させて、それを幕府が一括して掌握することに意義があった。いっぽう本山・本寺側もこの機会に便乗して末寺支配を進め、こうして本末制度を基本にした教団の組織化は、一七世紀半ばにはほぼ整ったのである。また原則的にこの時期の本末帳に記載されていることが、寺請寺院の条件となり、のちに古跡寺院としてさまざまな特権を付与されることにもなった。
寛文五年(一六六五)七月、はじめてすべての宗派に共通する内容をもった寺院法度が出される。将軍家綱による「諸宗寺院法度」九か条と、老中連署の「下知状」五か条で、これが以後江戸時代を通じて寺院法度の基本となった。