平安中期から中世にかけて、朝廷の尊崇を請け奉幣に預かった伊勢・石清水・賀茂など二十二社や一宮などの諸大社は、中世までの広大な社領を没収されたのち、新たに社領を安堵されて、幕府・藩・朝廷といった保護者をもつことになったが、いっぽう在地の中小神社は、中世から近世への変動期に、どのような変化を遂げたのであろうか。寺院と同様に、武士を保護者に持っていた神社の多くは、時代が推移していく中で武士との関係を絶たれ、村切りされた近世の各村落の鎮守神となって、もっぱら農民によって祠られ、神事が行われるようになっていった。
明治元年にはじまる神仏分離令が、明治政府によって発布されるまで、在地の多くの神社は、神祇信仰と仏教が習合した教義・儀礼・行法によって祭祀を営んできた。古代後期から中世初頭にかけて、天台系の山王神道、真言系の両部神道、法華系の法華神道など仏教教義を基盤とする神道説が成立し、これらに対抗して、南北朝時代には神道を主体にした習合神道説として度会(伊勢)神道が、室町時代には仏教・道教・儒教を取り入れた吉田(唯一宗源)神道が成立していた。近世に入っても、神社の多くは仏教に従属して習合的な祭祀を営み、一部の有力な大社が神祇伯を世襲する白川家の管轄下にあったほか、神祇官代の吉田家の支配下に置かれているものもあった。
神社を対象にした法度は個別に出されたものもあったが、すべての神社共通の法度として、寛文五年七月、寺院法度とあわせて「諸社祢宜神主法度」五か条が発布された。第一条は諸社の祢宜・神主が日常心がけるべきこと。第二条は社家が位階を受ける場合、朝廷に執奏する伝奏家(公家)が以前からある場合はこれまでの通りとする。第三条は無位の社人の装束の規定で、社人は白張(糊を強く引いて仕立てた白布の装束)を着し、白張以外の装束を着ける場合は吉田家の許状を受けること。第四条は神領の売買・質入れの禁止。第五条は社殿の修理は小破のうちに行い、掃除を怠らないこと、というもので、神社および神職を管理・統制しようとした幕府の基本的政策を明確に示したものであった。
諸寺社の訴訟をはじめとする奏事を、朝廷に奏聞する事を任務とする寺社伝奏は、公家の職制のひとつで、近世では、門跡寺院と、幕府の影響下にあって武家伝奏が兼ねることになっていたいくつかの仏教宗派を除き、他の諸宗派や無本寺あるいは神社の伝奏を行っていた。しかし公家との関係を持った神社は、全体からみれば少数であった。「諸社祢宜神主法度」の第二条にあるように、以前から執奏家のある社家を除き、執奏家のなかった社家の官位は、その社家が望むならば吉田家であろうと他家であろうと許容されるとし、さらに第三条の無位の社人の装束規定では、白張以外の装束はすべて吉田家の許状を受ける必要があるというのである。したがってこの法度は、吉田神道宗家吉田家にとって、執奏家をもたない在地中小神社の多数の神職支配を拡大する契機となった。