近世初頭以来、寺院・僧侶や神社・神職を本山―末寺、本所―末社に組織化することを企図し、およそ一七世紀後半には仏教寺院ではある程度の組織化が達成されていた。そこで幕府は、法度や触書を伝達し、あるいは教団の願書・伺いを幕府に伝えるなどを職務とする江戸触頭を設置し、教団の教化編成に当たらせるとともに、教団組織を直接掌握するための窓口としたが、神道には江戸触頭に相当する役所が長い間設けられなかった。延享元年(一七四四)当時の寺社奉行大岡越前守忠相は、全国の神社へ触れを伝達する方法がないことに苦慮し、四〇余年経た天明八年(一七八八)の触書にも「神主・社家には触頭がなく、触れが届きにくい」と記されている。そしてようやく寛政三年(一七九一)吉田家関東役所がはじめて開設され、まもなく白川家の江戸役所も設けられることになった。
ところで白川家は、古代から神祇伯家として全国の神社を管掌する権能を担ってきた立場から、宝暦期(一七五一~一七六三)以降吉田家に対抗して積極的に組織化を意図していた。天明二年(一七八二)吉田家の度重なる願書によって、再び「諸社祢宜神主法度」が全国に触れられると、白川家配下の神職には動揺する者もあり、両家による末端神職の争奪戦が全国で繰り広げられた。しかし幕府の方針は、吉田家の一元的組織化にこだわらず、多数の執奏家(神社伝奏)を容認することにあり、それまで吉田家一元支配であった無伝奏の諸国神社執奏を、寛政期には吉田・白川両家による執奏を公認することとした。一ノ宮の神主太田左内が、享和二年(一八〇二)になってはじめて吉田家の神祇道免許を受け(資二文化・寺社四八七・五二九ページ)、武蔵国の諸社神職が、天明から天保年間(一七八一~一八四三)にかけてはじめて吉田家・白川家の許状を受けるようになった例が多い(高埜利彦前掲論文)のも、このような事情によるものであった。