【寿徳寺】寿徳寺は、明徳元年(一三九〇)二月十五日、念阿法印護法という真言宗の僧が一庵を建てたことにはじまるといわれている。その後、天文十年(一五四一)十月二十八日にいたり、日舜宗慧によって再興開山された時に曹洞宗に改められた。しかし、これらはやや伝説に近く、確定しがたい。近世の史料によれば、寺院の新地改めに際して、貞享五年(一六八八)七月二十五日に差し出された代官宛文書に、「中興開山永禄元年(一五五八)より当年迄百三拾壱年ニ罷成候」(資二社経112)と記されている。
一方、再興時の開基については、佐伯一助道永との関連が伝えられている。道永は、陸奥に出陣して戦死し、道永の嫡男佐伯三河守道也が、父の回向のため日舜宗慧を開山として再興したのである。開基は佐伯一助道永居士となっている。
近世の寺院は本末体制によって掌握されていたが、寿徳寺の本寺は足立郡大久保村の大泉院(埼玉県浦和市)である。『風土記稿』には、「小山田村大泉寺末なり」とあるが、これは誤認である。
寿徳寺は寺方村の名のおこりともいい、その由来について『武蔵名所図会』は、「この地に佐伯氏が寺を再建せしとき、この地を寺領に寄附せしゆえ、終に村名を『寺の分』と称するより、いまに至るまで寺分村と唱うる由」と記している。
図6―44 寺方寿徳寺
その後、元禄十六年(一七〇三)、天保元年(一八三〇)、明治三十八年(一九〇五)と、三度の火災のたびに再建されたが、古文書・経巻などの貴重品が多数焼失してしまったことは、非常に残念なことである。寺領は近世を通じて七石で、朱印地であるが、朱印状は残存していない。
寿徳寺の末寺には観蔵院・高西寺・大福寺の他、現在は廃寺になっている熊慶寺(関戸)・竜泉寺(乞田)・東医庵(寺方)・一放庵(寺方)がある。
【観蔵院】有山にある寺院で、元は真言宗観妙寺であった。開山は寿徳寺四世の含室伝秀である。本尊は薬師瑠璃光如来で、山号は瑠璃山という。
【高西寺】連光寺にあり、山号は神明山。本尊は阿弥陀如来座像。除地で、開山は大福寺と同じく寿徳寺三世超巖守秀である。慶長四年(一五九九)に富澤家の当主が父の菩提寺として建立したものであることが伝えられている。
【大福寺】貝取にあり、山号は貝取山。境内地蔵堂の地蔵菩薩立像は行基作と伝えられている。五石五斗余の朱印地である。当初は真言宗であったが、寿徳寺三世超巖守秀の時に曹洞宗に改宗した。